精子の売買に関する法律が未整備で「自称精子バンク」が横行する日本でも、ようやく出自のわかる安全な精子を購入できるようになった。その立役者が、一昨年からデンマークのメガ精子バンク「 クリオス・インターナショナル 」(以下クリオス)の日本事業担当ディレクターを務める伊藤ひろみさんだ。
伊藤さんは医療従事者でも研究者でもなく、元は証券会社の一社員。結婚して、子育てもしている。この市井の人が、世界最大の精子バンクの目を日本市場に向けさせた。さらに日本で本格的な事業展開をするべく、孤軍奮闘中だ。(インタビュー全2回の1回目。 2回目 を読む)
日本の精子事情
2017年の暮れ、彼女の目をクリオスに向かわせたのは、文春オンラインに掲載された1本の記事だったのだが、ご本人から詳しい話を聴く前に、なぜ安全な精子が必要とされるのか、日本の精子事情を見ておこう。
不妊治療大国の日本では、5.5組に1組の夫婦が不妊検査もしくは不妊治療を受けている。不妊の原因は、女性に焦点が当たることが多いが、半数は男性側にも原因がある。男性にしろ女性にしろ、不妊の原因となる疾患があれば投薬や手術でその原因を取り除く。
その後、基本的には(1)タイミング法、(2)人工授精、そして(3)生殖補助医療へと治療をステップアップさせていく。特に疾患がない不妊の場合も同様だ。
(1)タイミング法とは、卵巣の超音波検査などから排卵日を予測し、その2日前から排卵日当日のタイミングでセックスをして自然妊娠を目指すという治療法である。(2)人工授精とは、精液を採取し、洗浄したうえで、排卵の時期に合わせてカテーテルで子宮内に注入することだ。
この後卵子が受精するかどうかは自然に任せることになる。(3)生殖補助医療には体外受精と顕微授精があり、膣から卵巣に針を刺して卵子を採取し、その卵子にたくさんの精子を振りかけて受精させるのが体外受精で、顕微授精は1つの卵子に1つの精子を直接注入する。いずれの場合もそのままシャーレの中で受精卵(胚)に育ててから子宮に戻される。
ちなみに、日本では生殖補助医療によって生まれる子どもの数は増加する一方で、2018年に生まれた赤ちゃんの16人に1人が体外受精もしくは顕微授精によって誕生している。
ただし、男性が無精子症であれば、この治療のステップは踏まない。日本人男性の100人に1人が無精子症だということをご存じだろうか。精液中にまったく精子がいない男性は決して珍しくはないのだ。無精子症の場合、(1)タイミング法、(2)人工授精、(3)生殖補助医療の体外受精については、そもそもたくさんの精子を必要とするため実施は不可能だ。
唯一、可能性があるのは顕微授精だが、それは精巣内に成熟した精子があり、針を刺して採取できればの話である。これができなければ、第三者から精子の提供を受けるか、養子縁組をするしか子どもを持つ術はなく、精子の提供を受けたいと希望する人たちは少なくない。
不妊治療の情報を提供するウェブサイトを立ち上げて
子どもを持つ喜びを知っている伊藤さんは、子どもを持つことができない人たちを放っておけなかったという。伊藤さんの話を聴こう。
――どうして放っておけなかったのですか?
伊藤ひろみ(以下伊藤) 証券会社でM&A(企業の合併・買収)や資本提携の提案を行い、「企業」の役に立つことにやりがいを感じていましたが、だんだん「企業」よりも「個人」、特に困っている人に対してより直接的にできることはないかと思うようになりました。
自身は不妊治療を経て子どもを授かりましたが、一方で同世代の女性たちがなかなか授からず、何度も不妊治療を受ける姿、妊娠に至らずに涙する姿、あるいは不確かな情報に振り回される姿を見てきました。そこで、不妊治療に関する正しい情報を提供するウェブサイトを立ち上げて、私なりに応援してきたんです。
日本にも精子バンクは必要だ! 精子売買はグレーマーケット
なかでも無精子症は治療が困難で、非配偶者間人工授精(AID)を決断してもなかなか受けることができないということもわかってきました。AIDは日本では正式に婚姻関係にある夫婦の夫が無精子症の場合にのみ認められています。
これができる病院として12の医療機関が日本産科婦人科学会(以下日産婦)に登録されているものの、現在実施しているのは5機関程度にすぎないのです。しかも治療の半数は慶應義塾大学病院で行われていますが、協力してくれるドナーが集まらなくなったため、新規の患者の受け入れを停止してしまいました。
日本には精子の売買を禁止する法律はありません。日産婦が「営利目的での精子提供の斡旋もしくは関与または類似行為をしてはならない」というガイドラインを出しているだけなので、精子については正規ではない、いわゆるグレーマーケットになっているんです。というのも、需要はあるからです。なかなかAIDを受けられず、自分で精子を調達して自分で膣に注入する人がいるのです。ボ
ランティアと称して精液を提供する人の広告がネット上にもたくさん見受けられますが、その精液が安全であり、質のいい精子が入っているという保証はありません。非凍結の精子では、HIVなど潜伏期間のある病気のスクリーニングもできません。海外で暮らしていたとき、安全な精子バンクを利用して無精子症の人たちが子どもを持つのを目の当たりにし、日本の現状には問題があると考えるようになりました。
日本にも精子バンクが必要だ。そう確信し、自力でバンクを立ち上げようとしたこともあります。しかし、専門家の先生たちにヒアリングしたところ、必要性自体は分かってくださるものの、民間企業が精子・卵子の斡旋に関与するということは、日本では認められないだろうと、否定的でした。医学界のみならず、世論にも商業主義を医療の現場に持ち込むことに対する強い反感があったのです。
実績と信用のある海外の精子バンクが日本で事業展開すればいい
Uber(ウーバー)やAirbnb(エアビーアンドビー)のように、ベンチャー企業がまず事業を始め、その後から規制が変わっていくのを狙うというのも一つのアプローチとしてあるでしょうが、医療ではそれは認められない、特にこの分野は倫理的な問題もあり、保守的に進めなければいけないといろいろな方に言われました。
無精子症の最先端治療の第一人者である獨協医科大学越谷病院の岡田弘先生にも同様のことを厳しく言われ、それもそうだなと思いました。ほぼ諦めかけていたときに、文春オンラインの記事が目に留まりました。
伊藤さんの目に留まったのは、「 精子もネット通販で! 値段は学歴でもイケメン度でもなく○○で決まる 」。2017年12月22日にアップされた記事だ。この年の秋、デンマークのフレデリック皇太子夫妻の来日に際し、国を代表する企業として随行したのがクリオスのオーレ・スコウ代表(当時)だった。
記事では、多くのドナーから精子を買い集め、凍結保存して医療機関や個人に販売する──スコウ氏が30年前に立ち上げたクリオスが、いまや世界100ヵ国以上に精子を販売し、ギネスブックに載るほどの大企業に育ったこと、同社の電子カタログにはドナーの国籍、人種、身長、体重、血液型、目の色、髪の色、精子の運動率、さらには心の知能指数(EQ)、赤ちゃんの頃の写真、本人の肉声までも掲載されていること、そして精子の価格は凍結した精子の解凍後の運動率によって決まることなどを紹介している。
伊藤 クリオスに関する情報もさることながら、「スコウ代表が日本進出も匂わせた」と書いてあったことに、閃きました。そうだ! 実績と信用のある海外の精子バンクが日本で事業展開すればいいんだ!
クリオス代表・スコウとの意見交換
そこで即、クリオスのスコウ宛にメールをしたためたのです。「私は日本には精子バンクが必要だと思っている。記事にあるとおり、日本進出の意向はありますか」。すると、すぐ本人から返信がありました。だんだんわかったことですが、彼はすごくまめな人なんです。かつ、文章がめちゃくちゃ長い(笑)。
関心はあるけれども、いろいろと難しいよねということだったんですが、私が質問したら答えてくれたり、逆に質問されたりという形で、1年ぐらいメール交換が続きました。例えば、私は、ドナーは絶対に身元開示、つまり生まれた子どもが出自を知る権利を保障することが必要だと考えていたのですが、スコウは身元開示ドナーと非開示ドナーの両方が必要だというのです。普通の生殖においても、本当の父親が誰なのか、子どもは知らないというケースがありますよね。
出自を明らかにして当たり前だという考え方は、いろいろな事情で出自を知らない人を傷つけてしまうこともあるというのです。また、ドナー精子を使って生まれたという真実を親が子に伝えなければ、子がその権利を行使するはずがないので、出自を知る権利の保障は告知とセットでないと無意味だと。なるほどと思いました。このように、私が気づいていないことをいろいろ教えてもらいながら、意見交換を重ねました。
2019年2月にはクリオスの日本語窓口を設置
当時、スコウは社長を退き、取締役会の1人になっていたため、私は新しい社長とオンラインで面談をしてもらうことになりました。何をやりたいと思っているのかを話すように言われていたのですが、私は志望動機や自己紹介のレジュメ、日本の現状、私が今まで取り組んできたこと、そして今後のビジネスプランをプレゼンテーション資料としてまとめて提出したんです。
すると、今までにもいろいろな国の人から一緒にやりたいと言われたけれども、ビジネスプランをつくってきた人は初めてだ、ぜひ一緒にやってみようということになりました。
それが2019年の1月で、その2月にはクリオスの日本語窓口を設置しました。デンマークの本社には年に2~3回行って、研修、各国担当者のプレゼンに参加します。ラボも見学し、ビジネスサイドのマーケティング、カスタマーサービス、顧客データやドナーのデータをどうやって管理しているかという仕組みなどについても学びました。自分で立ち上げたいと思っていたものとはぜんぜん違う。その何倍もお金と時間をかけて、効率化されたものがもうできている。それを日本に持ってくるのが一番手っ取り早いと、あらためて思いました。
もがいた期間にもネットワークができていた
ただ、自分で立ち上げようともがいたことも無駄にはなっていません。その時期は収入もなく、貯金を使い果たし、すごく苦しい時期ではありましたが、その分、捨て身で何もコネもない専門家の先生たちや当事者の方々に会いに行き、お話を聞かせていただいたことで、思いがけなくそれがネットワークとなって活きてきました。
その後も意見交換してくださる人もいますし、スコウと引き合わせた人もいます。連絡をしても、無視されたこともたくさんありましたけどね。
実は、以前からクリオスで精子を購入、空輸することは可能ではあったのですが、購入件数は年に数件だけだったそうです。日本語窓口を開設すると日本語でやり取りできることから、メディアで報じられるとともに問い合わせが殺到するようになりました。また、いくつかの医療機関が取り扱いを行ってくださることになりました。
それまで日本では、無精子症の方が運よくAIDを受けることができたとしても、ドナーについては血液型しか明かされませんでした。これでようやく、お子さんの出自を知る権利を保障するという選択肢ができた。無精子症の人にとって朗報だ。私はそう思ったのですが、予想が大きく外れ、大変驚いたことがあります。
昨年11月までに150人が精子を購入し、その過半数がシングルの女性だったのです。