しっかり話せない。約束を忘れてしまう。仕事を覚えられない。意欲が低下したり、怒りっぽくなったりする……。脳卒中などが原因で、記憶や思考、判断などを担う脳の機能に障害が出る「高次脳機能障害」が注目を集めている。患者はもちろん大変だが、症状が見た目にはわかりにくいせいもあって、家族の介護負担はより大きくなる傾向があるからだ。国は高次脳機能障害者と家族を支える体制づくりを進めており、東京都も今年2月、都内にある相談窓口や通所・入所施設など最新情報を盛り込んだパンフレットを発行した。かけがえのない肉親が脳障害を負った時、家族はどのような思いで支えればよいのだろうか。
■記憶障害や意欲低下の症状も
「高次脳機能障害」の「高次脳機能」とは、手足を動かすなどの基本動作ではなく、記憶したり、物を考えたり、計画を実行したりといった、人間ならではの高度な脳機能を指す。この機能が、くも膜下出血や脳梗塞などの脳卒中、外傷性脳損傷などが原因で障害を受けることを、「高次脳機能障害」と呼ぶ。推計で、全国に約50万人の高次脳機能障害者がいるといわれる。
具体的な症状としては、
(1)言いたい言葉が浮かんでこない、言われた言葉が理解できない、字を読めない、書けないなどの症状が表れる「失語症」
(2)発症前の記憶はあるのに、最近の体験やエピソードなどを中心に記憶できなくなる「記憶障害」
(3)物事に集中することが苦手になる「注意障害」
(4)物事を計画立てて実行できなくなる「遂行機能障害」
(5)何事にも意欲が低下する
(6)本人なりの理由はあるが、突然、興奮して怒り出すなど感情のコントロールができなくなる
(7)相手の感情などの読み取りが苦手となり、会話のキャッチボールができなくなる
(8)右脳の損傷を受けた場合、反対側である左側の空間が認識できなくなった行動を取る(左半側空間無視)
などがある。症状は個人差が大きく、これらすべての症状が表れるわけではない。
高次脳機能障害は、外見では分からないことが多い障害なので、「見えない障害」とも言われる。患者に対して、家族はどのように対応してよいのか分からず、戸惑い、疲れ切ってしまうことがある。
■動く右手だけでちらし寿司を作る
東京都世田谷区の「つるや鮨」の3代目店主・磯貝政博さん(54)も、高次脳機能障害者の一人だ。つるや鮨は、プロ野球で活躍した「打撃の神様」の川上哲治さん、元首相の福田赳夫さんらに愛され、80年以上の歴史を誇る。
磯貝さんは2006年2月10日、ランチの仕事を終えて、店の上の自宅で仮眠を取っていた時、異変に襲われた。目が覚めて起き上がろうとしたが、足に力が入らず、立ち上がれない。妻の香苗さん(48)に救急車を呼ぶように頼むと気を失ってしまった。
救急車で近くの病院に運ばれたが、右側の脳に出血が見られた。幸い、命は助かったものの、左半身にまひが残った。3月下旬、車いすで都内のリハビリ病院に転院。厳しいリハビリの結果、杖(つえ)をついてゆっくり歩けるようになり、6月初め、自宅に帰ることができた。
残念ながら、寿司(すし)を握っていた左手、左腕はほとんど動かなくなった。しかし、磯貝さんの苦難は、体が不自由になっただけではなかったのだ。
忘れっぽくなった。寿司を握れなくなったので、電話番をしていると、相手の名前を覚えることができても、注文の内容を忘れてしまう。同時に複数のことができないのだ。
視界に入っているはずなのだが、自分の左側にある物が認識できない症状(左半側空間無視)も表れた。高次脳機能障害に多い症状だ。
できないことが多くなり、すべてにおいて自信を失った。イライラ感が募り、怒りっぽくなった。ささいなことで父親と口論となり、政博さんは店にあった包丁を持ってきて、部屋で大の字に寝そべり、「この包丁で殺してくれ」と大騒ぎしたことがあった。また、他人に会うのが嫌になり、引きこもりの日々を過ごした。
「動く右手で何かできないかな」。訪問診療をしてもらっていた長谷川幹(みき)・三軒茶屋内科リハビリテーションクリニック院長(日本脳損傷者ケアリング・コミュニティ学会理事長)から、そう提案された。妻の香苗さんに相談すると、「握り寿司は無理だけど、ちらし寿司なら作れるんじゃないの」と言われた。
「よし、挑戦してみよう」。ネタは事前に父親にさばいてもらい、右手でご飯の上に乗せていく。自分の左側に置いたネタが認識できず、忘れてしまうことがあったので、体を左にひねって左側を必ず確認しながら作るように心がけた。何度も何度も挑戦して、作る時間を短くしていった。2008年春、初めてお客さんに食べてもらった。12年頃からは、右手だけで器用に包丁でネタを切って提供できるようになった。
政博さんは現在、朝6時に築地に買い出しに行き、9時に帰宅。それから素材のトロやマグロなどを切って、開店に備える生活を送っている。「自分のできないことに目を向けるのではなく、できることを伸ばすようにすることが大切です」と話す。
香苗さんは、「家族は、病気になる前の状態と比較するのはダメ。本人はもちろん家族も落ち込んでしまうから。本人が新たにやりたいと思えることを見つける手伝いをする、というような心づもりが重要だと思います」と言う。
■都が情報満載のパンフレットを作成
国も高次脳機能障害者と家族を支える体制づくりを進めている。2006年に施行された障害者自立支援法(現・障害者総合支援法)に基づき、高次脳機能障害者を継続的に支援するための「支援拠点機関」が各都道府県に設置された。患者や家族が安心して地域の中で暮らしていけるように、専門的な相談支援、関係機関との支援ネットワークの充実、普及・啓発事業、支援手法に関する研修などを実施することが役割だ。全国の支援拠点機関名は、国立障害者リハビリテーションセンターが運営する「高次脳機能障害情報・支援センター」のホームページで確認できる。
東京都の支援拠点機関は「東京都心身障害者福祉センター」(東京都新宿区)で、法律施行当初から積極的に活動を行っている。都内にある相談窓口、通所・入所施設、就労支援機関、医療機関などについて最新情報を盛り込んだ2018年版パンフレット「高次脳機能障害の理解と支援の充実をめざして」を今年2月にまとめた。2年ぶりの情報更新による発行だ。
元々は、都内の市区町村障害者担当者や医療機関、福祉関係者ら向けに作られたものだが、患者や家族が読んでも、役に立つ情報が満載だ。同センターのサイトにある「東京都心身障害者福祉センター発行各種パンフレット、リーフレット」という項目で読むことができる。
パンフレットでは、高次脳機能障害者に対して、家族や周囲の人たちがどのように接したらよいのか、についての具体的な対応法も紹介されている。
(1)ゆっくり、分かりやすく、具体的に話す
(2)情報はメモに書いて渡し、絵や写真、図なども使って分かりやすく伝える
(3)何かを頼む時には一つずつ、具体的に示す
(4)疲労やいらいらする様子が見られたら、一休みして気分転換を促す
(5)手順を簡単にする、日課をシンプルにする、手がかりを増やすなど環境の調整をする
と助言する。
■家族は時に介護を離れ、休息を
一方、磯貝さんの主治医で、長年、高次脳機能障害者への訪問リハビリを続けている長谷川幹院長が、高次脳機能障害者を支える家族に心得てほしいと思っていることを、下の表にまとめた。
家族はついつい、「昔はこんなことができたのに」「音楽が好きだったのに、最近は聴かなくなった」などと、病気の前後を比較してしまいがちだ。そのたびに家族が落胆していたら、本人は敏感に感じ取って自信を失っていくだろう。病気の前と比べるのではなく、本人が新しい楽しみ、趣味を見つけるように促すことが重要だ。
その楽しみは必ずしも、病気になる前と同じとは限らない。写真撮影、旅行、キャンプ、料理作りなど、個人によって様々だ。それを見つけると、本人にやる気が出てきて、自宅に引きこもりがちだった状態から脱し、自然と外出したり、他人と交わったりできるようになることがある。
家族は、本人ができることでも、靴下の脱ぎはき、食事の膳(ぜん)の上げ下げなど、何でもやってあげてしまい、結局、本人のためにならないことが少なくない。愛情を持ちながらも本人と適度な距離を保つことも、家族には必要だ。状態の改善が見られるまでには、年単位の長い時間がかかることも多いので、慌てず、あきらめずに見守ろう。
患者への対応を一時忘れて、休息を取ることも大切だ。家族が疲れていては、患者に優しくなれない。前述の磯貝香苗さんも、夫がリハビリ病院に通院している間に、自分がマッサージを受けたり、銀座へウィンドーショッピングに行ったりして、気持ちのリフレッシュを図ったという。
同じ環境に置かれた人たちに悩みを相談することは、適切な助言だけでなく、心の安らぎも得られる機会となる。全国に患者やその家族で作る団体があるので、積極的に参加してほしい。前出の高次脳機能障害情報・支援センターのホームページで確認できる全国の「支援拠点機関」に尋ねれば、患者団体の連絡先などを教えてくれる。だれもが病気に倒れ、だれもが家族を支える立場になりうる。この障害への理解を深めておくことが大切だ。
プロフィル
坂上 博(さかがみ・ひろし) 読売新聞調査研究本部主任研究員。医療部次長を経て現職。再生医療、難病、臓器移植、薬害、がんや生活習慣病など、医療全般について取材を続ける。「心と体に優しい医療」の実現をテーマに掲げた朝刊連載「医療ルネサンス」には、筆者、デスクとして約18年間、携わった。