大学時代はアメリカンフットボールの選手。大学病院で研鑽(けんさん)を積んだのち、現在、上野(下谷)と青山のクリニックを行き来して、歯科診療の最前線で活躍する。
4代続いた歯科医師家系の長男として、最先端の歯科医療の研究と臨床応用に余念がない。
「忙しいサラリーマンの患者さんも多いので、少ない回数でより良い治療を実践したかった。歯科医がほんの少し工夫するだけで、それは可能ですから」
そう言って笑う口元からのぞく歯は、当然のことながら真っ白。
大谷一紀院長が現在、取り組んでいるのが、新しい形態の「奥歯のかぶせ物」の臨床導入だ。
従来、奥歯の虫歯治療で“かぶせ物”の必要が生じた時は、健康保険が適用されるのは金属のクラウン、つまり銀歯か金歯。白いセラミックの歯を入れるとなると、保険外で10万円程度の出費を覚悟しなければならなかった。
「その中間に位置するかぶせ物が欲しかったんです」と語る大谷院長。
自身が開発に携わって出来上がったのが「ダイレクトクラウン」と呼ばれるセラミックとレジン(樹脂)のハイブリッド素材を使った“白いクラウン”。柔らかい素材をその場で形成し、LEDライトを当てることで硬化させる。従来の補綴(ほてつ)と違って、一度の治療で完結するのが最大のメリットだ。
「4年前に研修で渡米した時に初めて見ました。価格はセラミックの5分の1程度なので、患者さんの経済的負担は小さくて済む。自由診療の敷居を低くする技術だと思います」
価格は医療機関ごとに多少の差はあるが、大谷医師のクリニックでは、1本2万8000円。これで笑った時に口元に見える銀歯の輝きを気にしなくて済むなら、決して高くはない。
「銀歯からダイレクトクラウンへの交換を希望する人は多い。50代男性で、上下左右8本をまとめてこれに代えた人もいます」(大谷院長)
人前でさわやかな笑顔を見せられるか否かで、ビジネスの成果は大きく左右される。大谷院長の挑戦は、日本のビジネスマンにとって人ごとではないのだ。
■大谷一紀(おおたに・かずのり) 1973年、東京都生まれ。
97年、日本大学歯学部卒業。同大歯科補綴学第III講座入局。2000年より大谷歯科クリニックに勤務。11年より理事長。現在、東京都港区の青山ホワイテリアデンタルクリニック副院長を兼務。日本歯科補綴学会専門医、エステティック・エクスプローラーズ会長、日本顎咬合学会認定医。歯学博士。趣味は渓流釣りと自転車。
そこに病気が発生しても、なかなか症状を現わすことがないことから「沈黙の臓器」の異名を持つ肝臓。病気の発見、治療の双方において、難度の高い臓器の一つだ。
東京医科大学消化器内科主任教授を務める森安史典医師は、この肝臓疾患の診断と治療の双方で数多くの功績をあげ、今も最先端の医療技術の導入と普及に力を入れる消化器内科医だ。
「見つけにくい病気を早期で発見し、治療までトータルで診ることができるのが肝臓治療医の醍醐(だいご)味」と語る森安医師。日本で初めての肝臓造影超音波検査に携わるなど、肝臓病治療の第一人者として高い知名度を誇る。
そんな森安医師が今、手がけている最先端の治療技術がある。「ナノナイフ(IRE)」と呼ばれる低侵襲のがん治療法だ。
「従来はラジオ波焼灼(しょうしゃく)術という治療法が一般的でした。がん組織に電極を2本刺し、その間にラジオ波を流すことで、がんを焼く治療法ですが、IREはそれを高度に進化させたもの」と森安医師。その仕組みはこうだ。
がん組織に3-4本の電極を刺し、この間で3000ボルトの高電圧を流すことで、がん細胞に1ナノメートル(10万分の1ミリメートル)の穴を開け、これによってがん細胞を死滅させる治療法。従来のように「焼く」わけではないので、血管や神経にはダメージが及ばない。細胞だけを殺していく。
すでに欧米では導入されているが、日本では森安医師らの東京医大のチームが第1号。今年2月、先進医療を視野に入れた臨床試験をスタートさせている。
「肝臓だけでなく、将来的には膵(すい)がんなどにも適用範囲が広がる可能性がある」と語る森安医師。
「未来の肝がん治療」への取り組みが今、西新宿で始まっている。
■森安史典(もりやす・ふみのり) 1950年、広島県生まれ。75年、京都大学医学部卒業。倉敷中央病院、天理よろづ相談所病院、京大医学部附属病院に勤務を経て、87年、米国エール大学で共同研究。96年、京大助教授。2000年より現職。肝臓学会肝臓専門医試験委員、同生涯教育委員、科学研究費委員会専門委員他。医学博士。趣味はゴルフ。
重症の患者や痛みに長年苦しんでいる人を救う外科医。自身の技術を上達させ、患者の負担が少ない低侵襲の手術を実践する名医に、週刊朝日MOOK「『名医』の最新治療」で迫った。その中から、小倉記念病院副院長であり、心臓血管外科主任部長の羽生道弥医師(57)を紹介する。
■どんなに難しい患者でも絶対に諦めない
ひと口に心臓病と言っても、心筋梗塞、弁膜症、大動脈瘤(りゅう)とさまざまある。心臓病の手術数が全国トップレベルの小倉記念病院(福岡県北九州市)。心臓血管外科主任部長として腕を振るっているのが羽生医師だ。出血の少ない正確な手技は、同じ心臓外科医からも一目置かれている。
ただ本人は謙虚で少しも偉ぶるところがない。今回の取材を申し込んだときも、「私でいいんですか?」と控えめだった。
「他の著名な心臓外科医と比べて派手さはないし、口下手なので……」
2017年で医師32年目を迎える。年間の執刀数は約300例、通算では4千例を超え、日本のトップ心臓外科医の一人だ。だが意外にも、大学の医学部生のときは「小児外科」志望だった。
「乳幼児の生命力の強さに惹かれました。大人と違って『どこが痛い』と言えなくても原因を探りあて、治してあげたいと思ったんです」
ところが大学6回生のとき、研修先の京都大学病院で考えが変わる。小児外科と同じ病棟内に心臓血管外科があり、重症患者にチームワークで挑む先輩たちを見て、「心臓は生命により深く関わる分野。自分も力になりたい」との気持ちが強くなった。
1986年、医学部を卒業して心臓血管外科医に。病院の手術室で先輩から技術を学び、手術後は病院に泊まり込んで患者の容体を細かくチェックする毎日だった。
「当時の心臓血管外科は“3K職場”でしたよ(笑)。でも泊まり込んで、術後の患者さんの様子を細かく診られたことは大きな経験でした。当時の心臓手術は術後の合併症が多かったのですが、どんな状態が続くと合併症が現れるのか。それを未然に防ぐには、どんな手を打てばよいのか。いろいろ学ぶことができました。命もかなり救いましたよ。経験は今も生かされています」
続いて移った土谷総合病院(広島市)では成人に加えて、新生児や小児の心臓手術を数多く担当した。ここでも麻酔科医と泊まり込み、手術と術後のケアを繰り返し学んだ。
■日本を代表する3人の医師から学ぶ
その羽生医師には“3人の恩師”がいるという。はじめの京都大学病院では伴敏彦教授(当時)、土谷総合病院では望月高明医師、小倉記念病院では岡林均医師の指導を受けた。いずれも日本を代表する心臓血管外科医だ。
「3人の先生からは技術や治療方針の立てかたはもちろん、『絶対に諦めない』という姿勢を学びました。他では手術を断られた重症の患者さんも、思いをくみ取り、何とか手術できないかと必死に策を考える。手術中に容体が急変しても、『必ず立て直す』と諦めない。その姿勢と、ここぞというときの『引き出しの中身』を間近で学べたことは大きかったです」
今働いている小倉記念病院には、九州全域や広島県、遠くは関東からも患者が集まる。16年春、弓部大動脈瘤の患者が来院した。かつて別の病院で手術を受けた際に冠動脈につないだバイパス(内胸動脈)2本が、弓部大動脈瘤に巻き込まれていて、しかも瘤が胸骨に密着しているという深刻な状態。普通に手術をすれば瘤が大破裂することは必至だった。
しかし羽生医師は絶対に諦めないという姿勢で、大動脈弁狭窄(きょうさく)症の治療に用いる「経カテーテル術(TAVI)」も取り入れ、弓部大動脈を人工血管に置き換える手術を行った。時間はかかったものの無事に成功し、患者は元気さを取り戻した。
そんな羽生医師の得意な手術の一つが、人工心肺装置を使わずに行う「心拍動下冠動脈バイパス手術(オフポンプ)」だ。狭心症で心臓の冠動脈の血流が悪くなった場合、別の血管を迂回路(バイパス)としてつなぎ、血流を回復させる。
90年代までは心臓の動きをいったん止め、代わりに人工心肺装置で全身に血液を送りながらのバイパス手術(オンポンプ)が大半だった。しかし患者の負担が大きいこともあり、今では人工心肺装置を使わず、心臓を動かしたまま血管をつなぐオフポンプ手術が主流になっている。
ただそのぶん、執刀医には高い技術が要求される。冠動脈は直径1.5~2ミリほどで、手術時の心臓は動いたまま。その状況下で、迂回路となる血管を素早くつないでいく。しかも通常は3~4カ所の冠動脈にバイパスをすることが多い。
「手術では出血させないことが重要です。出血すると処置が必要で、時間もかかってしまう。迂回路となる血管をつなぐときは、心臓の拍動に合わせて一発で決める。バイパス手術の基本は『確実に着実に』です」
同手術は全身麻酔で行われることもあり、患者への負担はカテーテル治療より大きい。ただし1回で数カ所まとめて手術して、問題を解決する。術後、胸痛や息切れなどのつらい症状は消え、多くは見違えるように元気になる。
「7年前に狭心症でカテーテル治療を繰り返していた若い患者さんがいました。3カ月ごとに会社を休んで入院、検査に治療。職場ではかなり肩身が狭かったようです。内科医の勧めもあって、冠動脈バイパス手術をしました。2週間入院しましたが、その後は再発することなく元気に仕事に打ち込まれています。こうした再発率の低さもバイパス手術の大きなメリットです」
■万全の準備をして最高の状態で臨む
06年に小倉記念病院の心臓血管外科主任部長になってから10年が経つ。もう熟練の域に達していると思われる羽生医師だが、「まだまだです。それに完成したと思ったら医療の進歩はありません」とあくまで探究心を忘れない。連日、重症例の心臓手術に取り組み、24時間365日態勢で緊急患者も受け入れる。
手術が終わり、翌朝に合併症もなくホッとしていたら、次の患者が来るという繰り返しだ。
「通常の手術では準備万端整えて、最良のコンディションで臨むようにしています。患者さんもいい状態にして、麻酔科医や看護師、臨床工学士のスタッフも最高の実力を発揮する。手術時は一つひとつ確認作業を怠らない。鉄道の運転士が細かく指さしして、安全確認をしながら列車を動かすように、手術でも何百という確認作業があります。それを一つずつクリアしながら進めていく。一方、緊急の患者さんが搬送されてきたときは、王道が通じないことも多い。『どんな方法だったらうまくいくのか?』を即座に考え、決断し、チームで実行していきます。今後も最高の治療を提供していきたいですね」
小倉記念病院 副院長 心臓血管外科主任部長 羽生道弥
1986年、京都大学医学部卒。同大学病院、土谷総合病院を経て、2001年から小倉記念病院。06年に主任部長、13年副院長。
<実績> 合計手術数 約4000例(冠動脈バイパス手術2000例、心臓弁膜症の手術2300例、胸部大動脈瘤の手術600例など。合併手術のため重複あり)
国内でC型肝炎ウイルスの感染者数は約200万人。このうち年間約3~4万人が肝がんで死亡している。米国では感染者が400万人だが、肝がん患者は約1万人と日本より少ない。ウイルスに感染してから肝がんに至るまで、およそ30年を要するため、国によってタイムラグがあるのだ。
日本は1920年代からと、世界で一番早い時期にC型肝炎ウイルスが国内に広がっている。その結果、肝がんを発症する人が他国に比べて多い。ただし、89年に米国でC型肝炎ウイルスが特定された後、感染予防と感染した人への新たな治療法の研究が進められている。
そして、日本では国による肝炎総合対策も立てられた。予防法をはじめ、早期発見と適切な治療を行うための情報提供や、医療従事者に対する研修、最新の治療法の研究などさまざまな内容となっている。
その柱として2008年10月に開設されたのが、国立国際医療研究センター国府台病院「肝炎・免疫研究センター」だ。世界的にも最先端の研究を行い、ナショナルセンターとしての役割も担っている。新研究棟も完成し、今月1日には開所式が行われた。
「92年には1割の患者さんしか治らなかったC型肝炎は、05年時点でインターフェロン療法により、約5割の人は治るようになりました。今では、薬の効く人とそうでない人を事前に調べる診断法があり、より治療を適切に行えるようになっています」
こう話す肝炎・免疫研究センターの溝上雅史センター長(64)は長年、肝炎の診断、治療、研究に取り組んでいる。遺伝子の違いによって、インターフェロン療法の効果に違いがあることを共同研究で特定し、治療前に測定する方法も確立した。
溝上センター長は、08年に名古屋市立大学から赴任して以来、センターの設立に尽力する一方で最先端の研究も行っている。
「遺伝子型を事前に測定すると、その型によって8~9割の人には治療が有効になります。そして、型が合わない人には、効果のない治療を行わないことで、副作用を回避することができるのです」
さらに、従来のインターフェロン療法で効果を得られない人のために、新たな薬の開発にも力を入れている。治験も多数実施。日本に遅れてC型肝炎ウイルスが広がっている世界各国も、最新治療の先頭を走る日本の医療に注目している。
「新たな診断法や新たな治療法の開発により、4~5年後にはC型肝炎はほぼ治る時代になるでしょう。そして、より副作用の少ない治療法も確立するでしょう。患者さんが安心して診断と治療が受けられるように、さまざまな角度から臨床に役立つ研究を進めていきたいと思っています」
その取り組みは、新研究棟が開所したことで弾みがつくだろう。
<データ>実績
・C型肝炎患者数 500人
・インターフェロン治療人数 50人
・新しい薬の治験数 30人
・病院病床数 577床(現在の受け入れ可能は353床)
〔住所〕〒272-8516千葉県市川市国府台1の7の1
(電)047・372・3501
【転機 話しましょう】
外科医で、米コロンビア大教授の加藤友朗さん(49)は、他の病院で治療不可能と診断された末期症状の患者の命を数多く救ってきました。「どこかに突破口があるのではないか」。あきらめず、粘り強く考えることで、新たな道が開けることも多いといいます。(平沢裕子)
■「ノー」と言わない
主に肝臓や小腸の移植医として、子供から大人まで1千件以上の移植手術をこなしてきた。米国では「切除不可能とされたがんでも取る外科医」としても知られ、末期がん患者の手術も手がける。
「どんな症例の患者さんがきても最初から『ノー』と言わない。一から洗い直し、何かできないか考える。もちろん成功しない例もたくさんあるが、ノーと言わずにやってきたことが、今の仕事につながっている」
ノーと言わない姿勢を身につけたのは、医師になって2年目の研修医時代。敗血症で多臓器不全寸前の患者を救うため、徹底的にカルテを洗い直し、その患者に使用していない抗生物質があることに気付いた体験がきっかけだ。
著書『「NO」から始めない生き方』(集英社)で、このときの体験を「結果として患者さんを救えたことは『枠をはみ出して考える』『あきらめずに粘る』という医師としての僕の基本姿勢をつくったと思う」とつづっている。
海外で働くことは子供のころからのあこがれだった。夢を実現するため国内での研修を終え、渡米。米マイアミ大学で研修医として勤務するが、いざ臨床に携わると、患者や指導医の話す英語がほとんど理解できず「要注意研修医」のレッテルを貼られる。
言葉ができないために本来の研修医以外の仕事も押しつけられ、指導医の1人からはことあるごとにいびられた。ただ、患者と看護師からの評判はよかった。
「他の医師が電話ですませるようなことでも、僕は必ず患者さんの元へ行って対応した。電話だと言っていることが分からなかったためだが、それが逆に患者さんの信頼につながった。
僕をクビにする話が持ち上がっていたが、看護師が『言葉はだめだけどまじめに仕事をする』とかばってくれ、なんとかクビがつながった」
状況が変わったのは、“天敵”ともいえる指導医が執刀医を務める肝臓移植手術がきっかけだ。外科医として5年目で、本来なら執刀医の次の第1助手となるべき立場だったが、第3助手として手術に入った。
第2助手は2年目の研修医。手術の成否は助手に左右されることも多いが、第2助手は経験不足もあり患者の出血にうまく対応できなかった。
「このままでは患者さんの命にかかわる」。見かねて代わると状況が好転、手術は無事成功した。この日を境に指導医の態度はがらりと変わった。
これ以降、すべてのことがうまくいくようになる。ミーティングで治療方針を検討する際も、以前は「何を言ってるんだ」と軽くあしらわれたのが、話を聞いてもらえるようになった。
■世界初の手術
決定的な転機となったのは今から5年前。この病院で、世界初の難手術に成功したことだ。患者は63歳の米国人女性で、内臓の筋肉にがんの一種の「平滑筋肉腫」を発症。大動脈を巻き込む形で大きながんがあり、他の病院から手術不可能と診断されていた。
通常は開いた腹部からがんだけを取り出すが、この方法ではがんを取ると残された臓器に血液がいかなくなり、臓器が壊死する可能性があった。
そこで、胃や肝臓、小腸など6臓器を体外に取り出し、がんを切除した後に体内に戻すことにした。過去に手掛けた多臓器移植を応用した手法だが、それまで世界中でだれもやったことがなかった。
手術後、CNNやニューヨーク・タイムズなど全米の主要メディアが「日本人天才ドクター、世紀の大手術に成功」などと報じ、全米から問い合わせが殺到した。
「移植技術の応用と聞くと『なあんだ』と思うかもしれないが、当時はだれも考えなかった。医者の世界はこの症状ならこの手当てと治療のエビデンス(根拠)をたたき込まれ、発想が小さくなりがちだ。
研修医時代の体験で常識を疑うクセがついていたのと、あきらめずに解決を探る姿勢が身についていたことで、新しい分野を開拓することができた」
8年前から南米、ベネズエラの移植医療も手伝っている。移植手術を受けさえすれば、途端に健康になれる人は世界中にたくさんいる。世界をまたにかけた忙しい日はまだまだ続きそうだ。
■加藤友朗(かとう・ともあき) コロンビア大学医学部外科学教授。
昭和38年、東京都生まれ。62年に東京大学薬学部卒業後、大阪大学医学部学士入学。平成3年卒業。臨床研修終了後に渡米、マイアミ大学移植外科勤務。米国で脳死ドナーからの肝臓および小腸の移植手術を多数手がける。12~14年に阪大付属病院勤務、生体肝移植にも携わる。著書に『移植病棟24時』(集英社)など。
--大学は最初、薬学部ですね
「中高生のころ、生物の授業でDNAを解明したワトソンとクリックの話を聞いて分子生物学に興味をもちました。
子供のころから医者になりたいと漠然と思っていたものの、当時は分子生物学の研究者の方に魅力を感じて、それなら東大の薬学部がいいと薦められて。医学部の受験は大変という思いもありました。
でも、大学で実験を始めたら、自分が目指していたものとは違うと気づいた。結局、卒業後に学士入学制度のあった阪大医学部を受験し直しました」
--日本で研修医2年目に米国の医師資格試験に合格します。試験は難しくなかったですか
「内容は日本の医師国家試験と変わらないが、問題は英語で答えられるかどうか。僕はたまたま運転免許を失効して教習所通いをしなければならなくなり、病院の医局に寝泊まりしていました。夜間はすることがなく、試験勉強ができた。免許の失効がなければ勉強しなかっただろうから、試験に合格しなかったと思う。人間万事塞翁が馬です」
JR総武線信濃町駅の目の前にそびえる慶應義塾大学病院。日本を代表する大学病院の一つだ。ここの救急科(ER)勤務の林田敬医師は、「救急」という医療分野をアカデミックに捉え、基礎研究と臨床の両面から追求する若手医師。
「医師になりたての頃、救急で運ばれてきた心肺停止の妊婦を担当したのですが、母子ともに命を救うことができなかった。この時の悔しさから自問自答を繰り返すようになり、根本から勉強しようと考えたんです」
その思いに突き動かされるように上京。現在の教室に入ると、忙しい臨床と並行して、自らに課したテーマ「心肺停止の学術的解明」に向けた研究に取り組んでいる。
「現在でも心肺停止状態から社会復帰を果たせるのは10%以下と言われ、非常に高い壁であることは事実です。しかし、突破口がないわけでもない」
そう語るように、あるアプローチで、この生死のふちからの生還の確率が、高まる可能性があるというのだ。
「水素ガスを使う方法です。水素ガスは分子量が小さく、アルミニウム以外の物質は透過します。
しかも、心肺停止の原因となっている活性酸素のうち、最も悪玉とされる成分のみを除去する作用があるので、非常に効果的な作用が期待できるのです」
現在、慶大では、林田医師を中心としたチームで、心肺停止蘇生(そせい)後の患者に水素ガスの吸入を行う臨床試験が進行中。
これが成功すれば、救急医学を志した自身の目的が達せられるだけでなく、世界中の医療消費者に大きなメリットをもたらすことになる。
その研究をさらに進化させるため、林田医師は今秋から米国・ハーバード大学に留学する。夢の実現に向けて、新たな挑戦が始まる。
■林田敬(はやしだ・けい) 1977年、福岡県生まれ。
2002年、鹿児島大学医学部卒業後、同大麻酔科・集中治療科入局。06年、慶應義塾大学救急科入局。同大学病院、済生会横浜市東部病院などに勤務。日本救急医学会専門医、日本麻酔科学会麻酔科専門医、日本集中治療学会集中治療専門医。趣味は「子供と遊ぶこと」。
大阪駅からJR線で一駅。塚本駅前のアーケードを抜けたところにある「しもがき泌尿器科クリニック」は、6年前にオープンした泌尿器科専門の診療所。
理事長兼院長の下垣博義医師は、長く高機能病院で内視鏡などを使った低侵襲手術を行ってきた泌尿器科医だ。
「このクリニックの患者さんで多いのは、前立腺肥大症や性感染症、女性の過活動ぼうこうも3割程度います」と下垣医師。とりわけ前立腺肥大症については勤務医時代から力を入れて診てきただけに、開業してからも多くの患者が集まってくる。
「前立腺肥大症はがんと違って良性疾患なので、症状をなくし、患者が楽になるにはどうすればいいのか-を追求することが何より求められます」
そう語り、可能な限り患者の話を聞いて、その患者にとって最良と思われる治療方針を立てていく姿勢を堅持する。
「まずα-1ブロッカーという、尿道の圧迫を緩めて排尿の勢いを改善する薬を使います。その上で、症状の落ち着き方を見ながら、患者個別の状況に応じた対応を考えていく。ある意味“オーダーメードの医療”ということになります」
前立腺肥大症で訪れる人は60-70歳代が中心。夜間頻尿など日常生活で感じる支障が大きくなってから来院するケースが多いが、前立腺肥大症の背景には糖尿病や高血圧、脂質代謝異常症などの生活習慣病が関連していることも多く、甘く見ると取り返しのつかないことにもなりかねない。
「開業してからは内科系を中心に泌尿器科以外の診療科の勉強会などにも出るようになりました」と向学心旺盛な下垣医師。
「街の頼れる泌尿器科医」として、活躍の場が広がっている。
■下垣博義(しもがき・ひろよし) 1962年、大阪府池田市生まれ。
88年、神戸大学医学部卒業。同大附属病院、原泌尿器科病院、神鋼病院、兵庫県立尼崎病院、関西労災病院などに勤務後、2009年、「しもがき泌尿器科クリニック」を開設し理事長兼院長に就任。日本泌尿器科学会専門医、日本内視鏡外科学会認定医、日本性感染症学会認定医。趣味はダイエット(食事コントロール)と、ジムで汗を流すこと。
常にストレスと隣り合わせの現代人。慢性的な過労や緊張状態、さらにはその先にある鬱によって、生活を縛られている人は少なくない。
都営地下鉄新宿線・曙橋駅前にある吉村クリニックは、ストレスからくるさまざまな精神症状に悩む人たちに高く支持される心療内科クリニックだ。
「ストレス症状の治療は、画一的であってはならない」と話すのは院長の吉村英樹医師。特に会社での問題に端を発して症状が現れているケースは、患者が求める治療の方向性を正しく理解する必要があるという。
「診断書を書いて休職させることは簡単ですが、当人が職場から離れることを求めていないのに無理に休ませると、逆に状況を悪化させる危険性もある」
そう語る吉村医師は、必要に応じて漢方薬も用いた投薬で改善を図りながら、状況に応じた弾力性のある治療を模索する。
以前は鬱や神経衰弱というと、神経の細やかな人がなる病気というイメージが強かったが、必ずしもそうではないようだ。特に最近の傾向として、優秀な人ほどストレスに負けて崩壊してしまうケースが増えているという。
「仕事ができる人に難しい仕事が集中し、そんな人ほど断ることができない。しかも最近は上司の話を聞き流すことが苦手な人が多く、優秀な人ほど真剣に話を聞こうとして身動きが取れなくなっていく…」
丁寧に患者の話に耳を傾け、それでいて必要以上に相手の心に割り込もうとしない、吉村医師の診療姿勢。その適度な距離感が、患者に大きな信頼感を与える。
そんな自身のストレスは大丈夫なのだろうか。
「人の話を聞くのが好きでこの仕事を選んだので、診療でストレスを感じることはないですね」
飄々としたその笑顔が、心に重荷を背負う人たちに安らぎを与える。 (長田昭二)
■吉村英樹(よしむら・ひでき) 1954年、東京都生まれ。
徳島大学医学部卒業後、東京女子医科大学精神科教室に入局。98年、吉村クリニックを開業し院長に就任。精神保健指定医。医学博士。趣味は写真、音楽鑑賞、猫と遊ぶこと。
海外で具合が悪くなった時に、日本語で診察が受けられたら安心感は大きい。同じことは日本に来ている外国人にも言えるはず。
日本橋小舟町にある「二宮歯科医院」で歯科診療にあたる平山昌子さんは、韓国語を自在に操る歯科医師だ。
「韓国語は文法的にも日本語に近いので、以前から興味があったんです。1年間韓国に留学した経験を、韓国から日本に来ている人たちの歯科治療に少しでも役立てられたらうれしいですね」
そんな平山さんを頼って通院する韓国人患者もすでにいる。潜在ニーズは小さくないはずなので、今後口コミで拡大していく可能性は大きい。
そもそも平山さんが歯科医師をめざしたきっかけは何だったのか。
「実は私自身が歯科治療を受けた経験が一度もないんです。そんな立場から“予防の重要性”をアピールしたかった」
なるほど、取材中に時折、見える歯は見事に真っ白。同じ口腔(こうくう)衛生を指導されるにしても、強い説得力を伴ってくる。
勤務先の二宮歯科医院は、睡眠時無呼吸症候群(SAS)治療の分野で知られるクリニック。平山さんも、SAS治療の専門性を高めることを目標の一つとしている。
「歯科領域の中でもSASは新しい分野。それだけに勉強できることも多いと思って…」と、何ごとにも積極姿勢を貫く。
日頃の診療で心がけていることは“患者の希望に沿った治療”。
「いくつかの選択肢を挙げて、患者さんと話し合いながら、希望に一番近い治療を選んでいくように心がけています。その分、勉強しておかなければならないことも増えますが…大丈夫です(笑)」
二宮健司院長も「確実な仕事ぶりは安心して見ていられる。コミュニケーション能力も抜群です」と高評価。
高い専門性と向学心、そして韓国語を武器に、平山さんの挑戦は続く。
■平山昌子(ひらやま・まさこ) 1980年愛媛県生まれ。2004年鶴見大学歯学部卒業。同大附属病院、民間の歯科クリニックに勤務。その間に1年間、韓国に語学留学。11年5月より現職。趣味は料理と旅行。
栄養療法の専門クリニックとしてメディアでもたびたび取り上げられる新宿溝口クリニック。院長の溝口徹医師は、ペインクリニックを専門とする麻酔科医だった。
「妻が2人目の子供を出産後に、めまいなどの不定愁訴に悩まされるようになったんです。その後も症状はひどくなるばかりで、普通に日常生活を送れない状況になってしまった…」
そんな妻を救いたい一心で、いろいろな治療法を勉強していった。ようやくたどりついたのが、現在、自身のクリニックで行う栄養療法だった。
「食生活を改め、鉄分やビタミンB群の摂取を始めたところ、それまでの状態がウソのようにキレイに治ってしまったんです」と語る溝口医師。その後も栄養療法の研鑽(けんさん)を積み、その知識を臨床に生かす取り組みを続けてきた。
元はカナダの精神科医が、精神疾患に対する薬物治療に限界を感じて開発していった歴史を持つ治療法。
そのため鬱病やパニック障害の治療には非常に大きな効果を発揮する一方、がんの進行にブレーキをかけたり、不妊、子供の発達障害、自閉症、アトピー、糖尿病、メタボリックシンドロームなど広範囲な疾患にも適していることが後になって分かってきた。
そのため溝口医師の外来を受診する患者の層もきわめて多岐にわたる。
「栄養療法の知識のない医師の中には“代替療法の一種”として色眼鏡で見る人もいますが、特に紹介状も必要ないので、主治医には黙って受診する人も少なくない。
経過が良くなってからここに通院していることを打ち明けられて、『どんなことをしているんですか?』と主治医から質問されることもありますよ(笑)」
どこに行っても、何をやっても効果が得られなかった人の駆け込み寺として、溝口医師の外来は今日もにぎわっている。
■溝口徹(みぞぐち・とおる) 1964年、神奈川県生まれ。
90年、福島県立医科大学卒業。横浜市立大学附属病院、国立循環器病センターに勤務後、神奈川県藤沢市に溝口クリニック(現辻堂クリニック)を開設し院長。2003年、日本初の栄養療法専門クリニックとして新宿溝口クリニックを開設し現職。趣味は海釣り。
東急田園都市線の宮前平駅(川崎市)から徒歩2分の閑静な住宅地に建つ「K-クリニック」。院長の河上哲医師は、地元出身の泌尿器科専門医だ。
大学卒業後は神奈川県内の病院で実績を積み、やはり医師だった亡き父の診療所があったこの地で開業を決意する。
「病院勤務の中で、“外科に行くまでの絞り込み”の重要性を考えるようになったんです。本当に入院して手術が必要なのか、あるいは薬を使って通院外来で対応するべきか-を、高い専門性で分類する役割の医療が必要だろうと…」
河上医師が医学部を卒業した当時と今では、泌尿器科の治療も隔世の感があるという。
「例えば、前立腺肥大症も、当時は手術が基本でした。しかし、その後、治療薬の開発が進み、いまはα1ブロッカーに代表される効果と安全性に優れた薬が臨床に導入されている。
手術の割合が大幅に低下していることからも、内科的アプローチの技術向上が進んでいることは明らかです」
それだけに、地域に密着した泌尿器科外来を行う開業医の存在は増すのだが、そこで河上医師がこだわったのが「受診しやすいクリニック」というコンセプトだ。
「日本人の多くは泌尿器科に対して“恥ずかしい相談をするところ”というイメージを持っています。でも決してそうではなく、中高年になれば誰もが持つ悩みであり、きちんと治療することで生活の質も改善できると知ってほしかった」
待合室もさりげなく男女を分けた。特に「採尿」など、診療の上でも使用頻度の高いトイレは、男女が出入口で顔を合わせることのない設計だ。
開業して8年になるが、「今も毎日が勉強です」と謙遜する。その温厚な診療姿勢が、多くの患者の支持を集める。
■河上哲(かわかみ・さとし) 1969年、神奈川県川崎市生まれ。
93年、横浜市立大学医学部卒業。2000年、同大学院医学研究科修了。同大附属病院、横浜南共済病院、川崎市立井田病院、神奈川県立がんセンター、横浜船員保険病院などの勤務を経て、06年、K-クリニックを開設し院長。09年より、横浜市大客員准教授を兼任。医学博士。趣味はクラシック音楽鑑賞、水泳、子供と遊ぶこと。
東京メトロ有楽町線と副都心線「要町駅」を出た目の前で、1957年から診療を続ける要町病院。ここの院長を務める吉澤孝之医師は、呼吸器科領域で全国的知名度を持つ内科医だ。
まだ睡眠時無呼吸症候群という病気があまり知られていなかった1980年代、海外の文献から情報収集に努め、その診断と治療の先駆者としてリードしてきた。
特にその体形から発症リスクの高い相撲界では、吉澤医師によって命を救われた力士も多い。元横綱大乃国の芝田山親方などは、吉澤医師を「命の恩人」と公言するほど、という。
一方、「禁煙治療」に対する吉澤医師の動きも早かった。
保険診療が認められた2006年に、都内でいち早く「禁煙外来」を立ち上げ、自身のクリニックだけでなく、母校・日大病院の禁煙外来も切り盛りする忙しさ。
「むやみにたばこを取り上げるのではなく、患者自身に禁煙する意味を理解してもらうことが重要。
ニコチンに対する依存には薬を、習慣から来る精神的な依存にはカウンセリングを効果的に取り入れることで、モチベーションを高めるよう努力しています」
そんな吉澤医師が現在力を入れているのが「呼吸リハビリテーション」。COPD(慢性閉塞〈へいそく〉性肺疾患)や肺がんの術後など、呼吸機能が低下した人を対象としたリハビリだ。
「一度低下した呼吸機能を取り戻すことはできません。しかし、リハビリで呼吸のコツをつかむことで、呼吸困難に陥った時などのパニックを防ぐことはできる。
これによって日常生活の行動範囲が広がるので、寝たきりの予防や、息苦しさから派生する“うつ”などの精神症状の回避にもつながる」と吉澤医師。
28歳の時に病院創立者である父を亡くし、医療経営と臨床の経験を並行して積み重ねてきた苦労人。その柔和な笑顔と温厚な人柄を慕って、今日も関東一円から患者がやって来る。
■吉澤孝之(よしざわ・たかゆき) 1958年、東京都県出身。83年、日本大学医学部卒業。
現在、要町病院の他、サテライトの要クリニック、要第2クリニック、さらに日大医学部附属板橋病院でも診療。日大医学部臨床准教授を兼任。医学博士。趣味は骨董(こっとう=酒器)と読書。
東急田園都市線の宮前平駅(川崎市)から徒歩2分の閑静な住宅地に建つ「K-クリニック」。院長の河上哲医師は、地元出身の泌尿器科専門医だ。
大学卒業後は神奈川県内の病院で実績を積み、やはり医師だった亡き父の診療所があったこの地で開業を決意する。
「病院勤務の中で、“外科に行くまでの絞り込み”の重要性を考えるようになったんです。本当に入院して手術が必要なのか、あるいは薬を使って通院外来で対応するべきか-を、高い専門性で分類する役割の医療が必要だろうと…」
河上医師が医学部を卒業した当時と今では、泌尿器科の治療も隔世の感があるという。
「例えば、前立腺肥大症も、当時は手術が基本でした。しかし、その後、治療薬の開発が進み、いまはα1ブロッカーに代表される効果と安全性に優れた薬が臨床に導入されている。
手術の割合が大幅に低下していることからも、内科的アプローチの技術向上が進んでいることは明らかです」
それだけに、地域に密着した泌尿器科外来を行う開業医の存在は増すのだが、そこで河上医師がこだわったのが「受診しやすいクリニック」というコンセプトだ。
「日本人の多くは泌尿器科に対して“恥ずかしい相談をするところ”というイメージを持っています。でも決してそうではなく、中高年になれば誰もが持つ悩みであり、きちんと治療することで生活の質も改善できると知ってほしかった」
待合室もさりげなく男女を分けた。特に「採尿」など、診療の上でも使用頻度の高いトイレは、男女が出入口で顔を合わせることのない設計だ。
開業して8年になるが、「今も毎日が勉強です」と謙遜する。その温厚な診療姿勢が、多くの患者の支持を集める。
■河上哲(かわかみ・さとし) 1969年、神奈川県川崎市生まれ。
93年、横浜市立大学医学部卒業。2000年、同大学院医学研究科修了。同大附属病院、横浜南共済病院、川崎市立井田病院、神奈川県立がんセンター、横浜船員保険病院などの勤務を経て、06年、K-クリニックを開設し院長。09年より、横浜市大客員准教授を兼任。医学博士。趣味はクラシック音楽鑑賞、水泳、子供と遊ぶこと。
医療の世界で「専門性の高さ」が求められて久しいが、伊藤病院ほど徹底した専門性を打ち出し、実績と周囲の評価の双方において認められた存在の民間病院も少ない。
東京・原宿の表参道に面して建つ同院は、日本中の医師に「甲状腺疾患の専門病院」として認知され、全国から患者が集まってくる。まさに甲状腺治療の総本山的存在となっている。
院長の伊藤公一医師は三代目。祖父、父と受け継がれた病院を任されて16年になるが、その間、年間に受け入れる新患の数を3倍にまで押し上げた実力者だ。
「専門病院だからできることを確実に行い、専門病院にしかできないことに積極的に取り組む」という伊藤医師。その姿勢は、東日本大震災の際に明確に現れた。
東京電力福島第一原子力発電所の事故で放出された放射性物質による甲状腺疾患への不安が広まった際には、被災地での講演活動で甲状腺疾患についての正確な情報をアナウンス。あわせて福島の病院に勤務する検査技師を東京の自院に招き、安全かつ正確な検査手技の指導も行った。
こうした医療界内部での側面支援は一般には知られていないが、その取り組みが行政に伝わり、厚生労働省からの表彰につながった。
「福島の事故によって国民の目が甲状腺に向くようになった。しかし、それ以前は、特に健康な人にとって、目を向けることのない器官だったわけで、甲状腺疾患についての正しい知識を持つ人は少ない。それだけに専門病院としての役割も大きいはず」
臨床と病院運営に加えて「正しい情報の啓蒙(けいもう)」という新たな任務を背負った伊藤医師。その動きに国内外の医療者の視線が集まっている。
■伊藤公一(いとう・こういち) 1958年、東京都生まれ。
北里大学医学部卒業。東京女子医科大学大学院修了。米シカゴ大学留学を経て98年1月、伊藤病院院長就任。2004年、大須診療所(名古屋市)を開設。東京女子医科大学内分泌センターと筑波大学大学院外科系非常勤講師、日本医科大学外科客員教授。趣味はゴルフ、映画鑑賞、随筆執筆。
あなたは病気になったとき、どの医者に診てもらうだろうか。自宅、または職場の近くのクリニックや医院だろうか。それともかかりつけ医がいるだろうか。そしてどこまでその医師のことを知っているのだろうか。
医師の良し悪しは「誰に」聞けばいいのか?
「日本の医師の技術は野放しになっています。外科専門医など、個々の技能にかかわる資格には、実技試験はありません。例外的に麻酔科医だけは、実技試験を設けていますが、それ以外の分野ではほぼ筆記試験だけです。『専門医』といえども技術に信頼はまったくおけません」
こう警鐘を鳴らすのは、医師の南淵明宏氏。専門は心臓外科だが、医療機関と患者との信頼関係の大切さを日頃から説いている人物だ。日本の医療水準は世界的に見れば高い。けれどもそれは平均点であり、個々の医師の技量はマチマチであり、患者からは見えない。だからこそ患者は医師に丸投げの姿勢ではいけないと指摘する。
医師に掛かる前こそよく調べよう
医療過誤による訴訟は2004年をピークに減少したものの、2009年より微増を続けている。こうした訴訟の裏には、医師や医療機関への不信感から起こされている。南淵氏は、そういった訴訟を起こしている家族から相談を受けることもあるそうだ。訴訟を起こした遺族は、非常に熱心に亡くなった原因となった疾患や、その治療方法について調べ、「本当にその医療行為が正しかったのか」と問いかけてくるという。
遺族にとっては訴訟が解決するまで、本当に辛い日々が続く。南淵氏はそのよ
うな気持ちに共感しつつも、次のようなことをいつも思うという。
「病気や治療法、また担当医について調査するその熱意を、手術の前に発揮していただきたかったですね。そうすれば、どのような結果にも納得できたはずですから」
本当にこの医師に命を預けていいのか。私たちは治療にかかる前によく自分に問いかけるべきである。医師に丸投げしないその力を南淵氏は“患者力”と呼ぶ。
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「患者力」で一番大切なのは“感情”
では患者力を高めるにはどうすれば良いのか。南淵氏は、まず医師を見極めよと言う。医師を見極めるには、その疾患の手術数や治療実績、医師としてのキャリアを問う必要がある。最近では、病院の格付け本などもたくさん出版されている。だが勉強よりも第一に優先すべきものがあるという。それは自分の「感情」だ。
「人は感情の生き物です。患者はなぜ病院に来るのか。それは“不安”だからです。例えば、私の心臓外科に訪れる患者さんなら『心臓が今までになく脈打ってなんか苦しい、自分は死んでしまうのではないだろうか』との思いで医師に掛かるのです。医療行為の始まりは何かと言えば、“不安”。医師はその不安に対処するのが仕事なのです。それを分かっていない医師が多すぎます。私の仕事の99%は、患者の不安を取ることだと思っています。『大丈夫です、この手術なら何度も行っておりますし、何人もの患者さんが術後も元気に暮らしています』。こう伝えて患者さんに安心させることです」
あらゆる医療行為にはリスクは付きものだ。医師はその治療のリスクを説明する。だがそれは患者のためではなく、医師自らのリスクを回避する目的だ。結果、患者の不安はさらに増大する。 「もしも診てもらった医師が不安を払拭してくれない。診てもらう度に不安が増していく。また面談していてもなんか違和感を覚える。そういう言葉にできない直感でもいいのです。その感情を大切にしてください。医師と相性が悪いと思うなら別の医師に変えるべきです」
患者側からすると「違和感を覚える」、そんな程度で医師の変更を要求するのは、気が引けるかも知れない。しかしのちのち後悔しないためには、まず自分と医師の信頼関係がきちんと結べてなければならない。ここから初めて治療が始まる。
データは携帯電話のカメラで撮影してOK
「今ではセカンドオピニオンを求めるのは一般的です。医師に『他の医療機関でも意見を聞きたい』と申し出るのは気が引けるかもしれません。でしたら、検査結果、データなどをすべて携帯電話のカメラで撮らせてもらえばいいのです。レントゲン画像でも、心電図でも『ちょっと撮らせてください』と言えば大抵の医師は断りません。その写真を持ってセカンドオピニオンを聞きに行ってください」
医師の技量は経験値とほぼ同じだ。だが医師の善し悪しは必ずしもキャリア、手術数など数値で表せるものではない。 「外科医の場合、実力がないとこの世界では残れません。だから長くキャリアを積んでいる医師は頼りになります。けれども若い医師にも良さがあります。経験がないゆえに『虚心坦懐』、素直な気持ちで専門外の医師に意見を聞きます。これが年齢のいった医師となると、メンツなどを気にして他の医師に相談せず、独断で判断し何かを見逃す可能性もあります」
では信頼に値するかはどう見極めればいいのか。南淵氏はこれも簡単だという。
「その病院の事情に一番詳しいのは看護師です。看護師に『あの先生の評判はどうですか』と聞くといいでしょう。あからさまに『ダメな医師です』と応えることはありませんが、言いよどむ、言葉を濁すなどの雰囲気からその医師がどう見られているのかわかるはずです。また『看護師さんならどの先生に執刀してもらいたいですか』という聞き方もありです」
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あなたの名医は自分にしか分からない
だが相性の合う医師との出会いは容易ではない。しかも権威があるから安心というわけではない。
「医大付属病院は若い医師の養成機関という側面を持っています。国公立はお役所的な四角四面な対応になりがちです。また民間の病院は手術数を稼ぎたいために不要不急の手術を施すところもあります。どの病院にもメリットデメリットがあり、またその病院のなかでも医師の技量は玉石混交です。いい医師の出会いは、美容院探しと同じ。自分で足を運んでその目で見なければわかりません。後悔のない治療のためにも、患者さんはこの試みを怠らないでください」
良い医療を受けたいなら、患者もまた“良い患者”となる努力が必要だ。ふたつとない自身の体のことだから「患者力」を高めておいて損はない。.
南淵明宏氏
昭和大学心臓血管外科教授。奈良県立医科大学医学部医学科卒業。シドニー セント・ビンセント病院、国立シンガポール医科大学付属病院などを経て現職に。マンガ『ブラックジャックによろしく』のモデルとして知られ、ドラマ『白い巨塔』の協力医などもつとめる。2017年8月23日にオンエアされた、NHK「総 合診療医ドクターG」などテレビの出演、監修など多数。 著書、『あるがままに生きる』(永岡書店)、『患者力』(中央公論新社)などを執筆。最新刊は『医学部に来なさい!』(玄文社)が好評発売中。
公式サイト http://www.nabuchi.com
川崎市北部を代表する基幹病院の聖マリアンナ医科大学病院。ここの代謝内分泌内科部長を務める田中逸教授は、大手自動車会社に勤務した経験を持つ、異色の内科医だ。
「生化学への興味が断ち切れず、医学の道に転身しました。糖尿病というさまざまなタイプの患者さんと接する今、その経験は大いに役立っています」と笑顔で話す。
「人間が好き、人と話すのが好きだからこの分野を専攻した」と言うとおり、話す内容が理路整然としていて分かりやすい。難しい専門用語は極力使わず、平易な言葉に置き換えて説明するので、患者の理解度も高まる。
進化する糖尿病治療。しかし、医療技術を成果に結び付けるには、患者自身が治療内容を理解し、納得できるように説明する必要がある。
「例えば近年は早期インスリン治療といって、比較的早い段階の糖尿病患者にインスリンの自己注射を行うケースが出てきました。しかし、『インスリン注射は最終手段』と考え、治療に否定的な姿勢を示す患者もいる。そんな人には、インスリンは飲み薬にできないこと、まずはインスリンで血糖を正常にして膵臓を休ませることの重要性を説きます。
その上で、何よりインスリンはもともと体内で分泌されるホルモンで、インスリン注射は少なくなったホルモンを補充するだけのことであり、異物を注入するわけではないことを丁寧に説明します。その丁寧さを省いてしまうと理解は得られません」
そう語り、糖尿病治療を「患者さんに生き方を見つめ直してもらうこと」と表現する。
長年の実績から培われた対話術を武器に、精度の高い糖尿病治療に取り組む田中医師。その姿は、経験豊富な学校の教師の姿を想起させる。
糖尿病治療は医師との付き合いも長くなる。田中医師の診察室に漂う信頼感と安心感が、患者の治療への意欲を優しく後押しする。 (長田昭二)
■田中逸(たなか・やすし) 1955年京都府生まれ。
名古屋工業大学を卒業後、大手自動車会社に勤務。その後、滋賀医科大学に進み86年卒業。同大第三内科、東京都済生会中央病院に勤務後、順天堂大学助教授を経て、2006年より現職。日本糖尿病学会専門医・研修指導医、日本内分泌学会専門医・研修指導医ほか。NPO法人「川崎糖尿病スクエア」理事長。
東京都中央区日本橋小舟町。東京がまだ江戸と言われたころ、ここを西堀留川が流れ、水運の物流拠点として重要な役割を果たした場所だ。
ここで4代、107年にわたって歯科診療を続けている「二宮歯科医院」で、若手実力派女性歯科医師が診療に当たっている。
小國遼子さんは4年前に歯学部を卒業し、大学病院や民間の歯科医院で研鑽(けんさん)を積み、昨年から現在のクリニックに籍を置く。
「人と関われる仕事に就きたかった」と語る小國さん。一般歯科の診療に当たる一方で、睡眠時無呼吸症候群の治療にも力を入れている。睡眠時にマウスピースを使って下あごを前方に出し、のどの気道を広げて呼吸をサポートする治療法だ。
「あごを大きく出すほど気道も広がりやすくなりますが、半面それがストレスになることもある。効果と快適性を考慮して微調整するところが難しい点。でも、治療効果が出て、『ゆっくり眠れた』という言葉を聞くと、やっぱりうれしいですね」
場所柄、サラリーマンが多く受診する。昔から歯医者さんで怖がるのは女より男-と言われるが、今も診察室に入ってからも恐怖で震えている男性患者はいるという。
「そんな時は、治療に入る前の会話でリラックスしてもらうように心がけています。決して無理強いはせず、コミュニケーションを取りながら、安心感が持てる雰囲気づくりを心掛けています」
これには二宮健司院長も感心しており、「もともと“話しやすい雰囲気”を持っているので、誰もが安心して相談できる。歯科医師として強力な武器ですね」と信頼を寄せる。
そんな小國さんから読者諸氏にアドバイス。
「治療はもちろんですが、それより大事なのが予防です。一度でも痛い目に遭った経験があれば別ですが、そうでない人は歯科健診をおろそかにしがち。長くても半年に一度は、口の中の衛生状態をチェックしに来てください」
転ばぬ先の杖。痛くなる前の小國先生-だ。
■小國遼子(おぐに・りょうこ) 1984年、千葉県出身。
2010年、日本大学歯学部卒業。同大松戸歯学部で研修後、民間歯科医院に勤務。12年4月より現職。趣味は旅行。
セブンスデー・アドベンチスト教会(SDA)というキリスト教の一派がある。アメリカ・メリーランド州に本部を置くこの教会は世界250カ国に布教拠点を置き、日本国内の信者は約1万7000人。その最大の特徴は禁酒、禁煙、そして菜食の奨励だ。
特に菜食に関しては世界的に注目され、肉食中心の欧米型食生活と疾病の関係を調べる疫学調査では、必ずと言っていいほどSDA信徒が対照群に選ばれる。そして有意差を持って長寿や罹患率の低さを示す。
同教団の日本法人が運営する神戸アドベンチスト病院は、神戸市北区の有馬温泉に近い新興住宅地を見下ろす高台にある。
院長の山形謙二医師は、日本における緩和ケアの先駆者として知られる存在。アメリカで緩和ケアを学んで帰国したのが1980年のこと。
「当時の日本で、がん告知は、ほぼ皆無。充実した終末期医療のためには、医師と患者側双方の意識を変えていくところからのスタートでした」
その後、山形医師らの努力もあり、日本でもがんの告知が一般化。緩和ケアの必要性も認知され、並行してがん性疼痛(とうつう)をコントロールする薬剤の開発も進んだ。
医療用麻薬の効果と安全性も高まり、「正しい知識の下で薬を使い、医療者と家族が患者に寄り添うことで、がんによる大抵の苦痛は取り除くことが可能」と山形医師は自信を見せる。
教会の運営する病院だが、患者に信仰の制限はない。がん治療だけでなく、気軽に受診できる地域の中核病院として住民の評価は非常に高い。
「聖書にある“安息日”にあたる土曜を休診にする代わりに、日曜は平常診療。サラリーマンには喜ばれるんですよ」と笑う山形医師。
健康管理と疾病治療の両面において、山形医師にかかる期待は一層高まっている。(長田昭二)
■山形謙二(やまがた・けんじ) 1946年東京都杉並区生まれ。72年東京大学理学部卒業。76年米・ロマリンダ大学医学部卒業。米・内科学専門医、同内科専門医会フェロー、同ホスピス緩和医療学専門医、日本緩和医療学会暫定指導医、日本スピリチュアルケア学会評議員、兵庫医科大学臨床教育教授。趣味はマリン
「真珠腫」という耳鼻咽喉科領域の病気がある。耳の奥、鼓膜付近がへこんで、そのポケットに老廃物などが蓄積し、真珠に似た構成物ができていく病気だ。
それ自体は良性疾患だが、放置して肥大化すると顔面神経や味覚を司る神経などに影響を及ぼす危険性がある。美しい病名だが、じつに厄介な病気だ。
この真珠腫に代表される「耳」の疾患治療の世界で知られるのが東京・西新橋にある東京慈恵会医科大学耳鼻咽喉科准教授の小島博己医師だ。
「子供の頃から細かい作業が得意だったんですよ」と笑う小島医師。なるほどその手術は、まさに針の穴を通すような細かい操作の連続だ。
小島医師自身、「今やっている作業ではなく、その二手、三手先を頭に描きながら手を動かせるか否かが、手術の出来を大きく左右する」と語るように、1ミリにも満たない範囲での繊細な作業にも関わらず、その指先の動きは滑らか。そこに「躊躇」は感じられない。
そんな小島医師が昨年から取り組んでいるのが、「耳硬化症」という病気での内視鏡手術。耳硬化症とは、内耳を取り囲むように存在する骨のうち「アブミ骨」という人間の体で最も小さな骨が周囲の骨と癒合してしまい、聴力が低下する病気だ。
耳の後ろ側を大きく切開して手術をするのが一般的だが、小島医師は国内で唯一、この手術で内視鏡を使い、耳の穴からアプローチする。
「外国人と比べて日本人の耳の穴は小さく、それだけ内視鏡手術も難度が高くなるのですが、耳の後ろを大きく切開するのは、やはりスマートさに欠けるので…」
その温和な表情や話し方からは容易に想像できない、医師として常に高みを目指そうとする姿勢の先に、効果と安全性に低侵襲を加えた耳の手術が実現する。
■小島博己(こじま・ひろみ) 1962年東京都生まれ。87年東京慈恵会医科大学を卒業。同大耳鼻咽喉科に入局し、同大附属病院、同柏病院、同第三病院、東京共済病院などに勤務。2006年より現職。医学博士。趣味はオーディオ。
肝がんに対する肝切除術に、腹腔鏡が導入されていることは小欄でもたびたび紹介してきた。低侵襲(手術創が小さい)というメリットの半面、一部で医療事故が問題になるなど、その安全性に懐疑的な見方があることも事実だ。
患者がリスクを理解した上で、なおその術式を求めたとしても、高度な技術と安全への配慮を万全にした上で初めて成り立つ低侵襲手術だけに、医療者側の治療に対する「姿勢」が何より重要になってくる。
彩の国東大宮メディカルセンター外科部長と手術部長を兼務する金達浩医師は、まさにその「技術」と「安全への配慮」を高いレベルで兼ね備えた消化器外科医だ。日本肝胆膵外科学会の「高度技能専門医」第一期認定医12人の一人。
その技術の高さは誰もが認めるところでありながら、手術に対する謙虚さを忘れることはない。
「腹腔鏡手術の適用例であっても、利益と危険性を説明し、不安が残るようなら開腹手術を勧めます。患者さんが後悔しない、納得できる治療をしたいので」
金医師のこだわりはもう一つある。「根治性」だ。手術をする以上、見落とし、取り残しは絶対に避けなければならない。
「細かいことでも省略せず、決められた手順を踏んで丁寧に進めていくことに尽きます。手術というものは、外科医にとっては毎日のことでも、患者にとっては人生で一度あるかないかの経験。それを任せてもらう以上、どんな状況でも全力を尽くす義務がありますから」
相手の目を見て、丁寧に言葉を選んで話すその物腰から、誠実な人柄が伝わってくる。そしてそれは、命を預ける臨床の場において、何よりも「安心感」が重要であることを、再認識させてくれるのだ。
■金達浩(きん・たつひろ) 1969年、東京都生まれ。94年、群馬大学医学部卒業。東京女子医科大学東医療センター、国立がん研究センター研究所、国立がん研究センター東病院などを経て、2012年に東大宮総合病院(現・彩の国東大宮メディカルセンター)外科部長兼手術部長。肝胆膵外科高度技能専門医。医学博士。趣味はダイビング。
歯科矯正というと、歯の表面に取り付けられたワイヤを思い浮かべる人は多い。咬合不全から生じるさまざまな不具合の解消のために重要な治療だが、それによって一定期間、審美面が損なわれるのも事実。そこで、見た目には治療中であることが分からない「歯の裏側」からアプローチする歯科矯正に取り組む歯科医師がいる。
東京・渋谷、宮益坂の途中にある渋谷矯正歯科は、3年前に青山から移転してきた矯正歯科専門クリニック。院長の東海林貴大(たかひろ)歯科医師は、祖父から続く歯科医家系の3代目。
歯学部卒業後は、父から「歯科の中でも最も難しい領域」と言われていた矯正歯科を専門に選び、大学病院などで実績を積んできた。中でも高度な技術を必要とする「裏側矯正」では国内屈指の症例数を誇り、ネットなどでその情報を得た患者が全国から集まってくる。
「3Dプリンターでその人ごとの歯の模型を作り、その人にとって最も理想的な歯並びを描いていく。それを見ることで、患者さんも矯正後の自分の歯の姿が分かり、治療に積極的になれるのです」
積極的に歯を見せて笑う欧米人と違って、「歯並び」に重要性を置かない時代が長かった日本人。しかし近年、審美性だけでなく、歯並びやかみ合わせが全身の健康状態と密接な関係を持つことが解明されるに従い、矯正歯科へのニーズは急速に高まりつつある。
「患者満足度の高い治療を実践するのはもちろんですが、一方で技術力の高い矯正歯科を普及させていく必要を感じています」と東海林院長は言う。矯正歯科をベースにした高品質の一般歯科をめざす若い歯科医師の育成に力を入れるべく、渋谷の本院の他に今月には横浜に、今年夏をめどに池袋にもサテライトクリニックの開設を予定している。
「日本人の歯並びを欧米人並みに美しくするのが目標です」と笑う東海林院長。その実現に向けた取り組みは、確実に前進している。 (長田昭二)
■東海林貴大(しょうじ・たかひろ) 1975年、神奈川県川崎市生まれ。
北海道医療大学歯学部を卒業し、同大歯科矯正科入局。札幌医科大学口腔(こうくう)外科に勤務ののち、2007年、青山通り矯正歯科を開業し院長。13年、現在地に移転し施設名を渋谷矯正歯科に変更。16年3月、横浜駅前歯科・矯正歯科を開業し同院総院長を兼務。日本矯正歯科学会認定医、日本成人矯正歯科学会認定医、日本舌側矯正歯科学会認定医他。趣味は旅行。
宇都宮市北西部の郊外に12年前にオープンした冨塚メディカルクリニック。診療所ながら19床の入院ベッドを持ち、救急にも積極的に対応する、地域に根差した医療拠点として機能している。
院長の冨塚浩医師の専門は血液内科。自身が9歳の時に4つ下の弟を白血病で亡くしたことから、「将来は白血病患者の命を救う医者になる」と心に決め、その目標に向けて邁進(まいしん)してきた。
「私が医師としてデビューした当時、白血病はようやく骨髄移植が始まったあたりで、まだ手の付けられない病気でした。それが治療薬の進歩で、今では治すことが当たり前の時代になった。隔世の感があります」と目を細めるが、院長としての現在は、さらに広範囲に目を向ける毎日だ。
「大学病院では血液疾患だけを診ていればよかったけれど、ここではそうはいかない。開業医は病気を選んでいられませんから」と笑うように、あらゆる疾患、症状のプライマリケア(初期診療)に取り組む毎日。人工透析や健診に対応したMRIなどの設備も持ち、トータルな地域医療の充実に力を入れている。
こうした姿勢の背景には、冨塚医師自身の「僻地(へきち)医療」の経験が大きく関係している。出身大学である自治医大は、卒業後に一定期間、出身県内で僻地医療に従事することが義務付けられている。そこで経験した「患者とのふれあいの大切さ」が、現在のクリニックの方向性を示しているのだ。
「一つハッキリしていることは、僕が“人と接することが好きだ”ということ。だから過疎地や山間部の医療機関に勤めていても、患者さんと話していれば不満がなかったんです」
当時から冨塚医師を慕う多くの患者が、今も県内全域から集まってくる。理想的な地域医療の一つの姿が、そこにある。
■冨塚浩(とみづか・ひろし) 1961年、栃木県生まれ。86年、自治医科大学卒業。栗山村立湯西川診療所に勤務の後、96年、同大学院修了。栃木県医師会温泉研究所附属塩原病院内科医長、黒須病院内科部長、自治医科大学内科講師を経て99年、日光市民病院院長。2003年、菅間記念病院副院長を経て04年から現職。日本内科学会認定医・総合内科専門医、日本血液学会血液専門医他。現在、自治医科大学非常勤講師。医学博士。趣味はギターとゴルフ
JR京浜東北線・蕨駅と埼玉高速鉄道・鳩ケ谷駅からそれぞれバスで10分。閑静な住宅地に昨年11月にオープンしたかわぐち心臓呼吸器病院は、その名の通り「循環器」と「呼吸器」の疾患の診断と治療に特化した病床数88の専門病院だ。
院長の竹田晋浩医師は、長年にわたって母校の日本医科大学付属病院に勤務し、集中治療部門のトップとして活躍してきたICU治療における日本の第一人者。
「医者になって25年が過ぎたとき、ふと考えたんです。あと25年は臨床に携われるだろう。ということは、今が折り返し地点。ならば医師としての後半の人生は、自分の考える“理想の医療”の実現に挑戦してみよう-と」
自身の専門である循環器と呼吸器に対象を絞り込み、「重篤な症状の患者を助けること」を命題とした医療機関の設立を決意する。
医師としての後半生を賭けた船出だけに妥協はない。医師やスタッフは自分と同じ思いを持つ精鋭だけで組織した。導入した医療技術や院内設備も、療養環境を最優先した細かな設計にこだわり抜き、中規模民間病院としては他に類を見ない医療提供体制を実現している。
高度な技術と高品質の療養空間は、オープン直後からクチコミで地域に浸透し、当初見込んでいた病床稼働率を大幅に上回る受診者を受け入れている。
「心臓と呼吸器に関する急患はすべて受け入れます」と話す竹田医師の言葉には、長年にわたって心血を注いできた高度な重症管理と救急管理への自信がうかがえる。
取材中も頻繁に鳴る救急搬送の連絡の一つひとつに、竹田医師は丁寧に指示を出す。緊急事態にあって、あえて穏やかに話すその口調が、常在戦場の臨床現場に冷静さをもたらす。
県南部に誕生した世界標準の専門病院。その先頭に立つ竹田医師に掛かる地域の期待は大きい。
■竹田晋浩(たけだ・しんひろ) 1960年、京都府生まれ。86年、日本医科大学卒業。92年、同大学院修了。同大医学部麻酔科入局。講師、准教授、教授を歴任。96年から1年間、スウェーデン・カロリンスカ大学に留学。2015年から現職。日本医大特任教授、徳島大学客員教授、日本呼吸療法学会副理事長、厚生労働省ECMO研究班代表他。趣味は「2人の娘(ともに英国在住)とのメールのやりとり」。
毎年暮れになるとテレビで映し出される東京・上野の“アメヤ横丁”。そのすぐ近く、上野広小路に建つビルの6階にあるのが「吉野眼科クリニック」だ。
院長の吉野健一医師は、およそ20年前、当時の日本ではまだ認知されていなかった「ドライアイ」を米国で学び、その病態を日本に伝えたチームの一人。帰国後に開業してからも大学の研究室に籍を置き、最先端の知識と技術を臨床の場で提供し続けてきた。
現在もドライアイの診断と治療を柱に、白内障やレーシック手術など、眼科領域の中でも特に高い専門性が求められる診療に力を入れる。
吉野医師が今、熱心に取り組んでいるのが「オルソケラトロジー」という治療法。
「睡眠中に専用のコンタクトレンズを装着することで、角膜のカーブを変え、視力を矯正する治療法です。アメリカで開発され、2009年に日本でも厚生労働省の認可が下りました。
海外では、特に小児の近視進行抑制効果が認められていて、日本でも今後、眼科治療の一つの柱になる可能性があります」
レーシックや、このオルソケラトロジーもそうだが、吉野医師には先駆者ならではの悩みもあるという。
「新しい技術が注目されると、不勉強な医師が手を出して事故を起こす。これが一番つらいところ」と苦笑いする。その苦悩があるからこそ、患者がその治療を求めて来ても、適応から外れる時には毅然と断り、その患者にとって最適の治療法を考えていく姿勢だけは絶対に崩さない。
屈託のない笑顔で話す姿は、深い信頼感を醸成する。高い技術力だけでない、人間としての魅力が患者はもちろん、同業者の信頼をも得るのだ。
■吉野健一(よしの・けんいち) 1960年、東京都生まれ。81年、日本医科大学を卒業し、慶應義塾大学眼科学教室に入局。同大関連病院に勤務後、米・マイアミ大学に留学。帰国後の95年、吉野眼科クリニックを開設し院長。現在、東京歯科大学眼科学教室ならびに日本医科大学眼科学教室講師。医学博士。趣味は硬式テニス、海釣り、マラソン。
川崎市北部を代表する基幹病院の聖マリアンナ医科大学病院。ここの代謝内分泌内科部長を務める田中逸教授は、大手自動車会社に勤務した経験を持つ、異色の内科医だ。
「生化学への興味が断ち切れず、医学の道に転身しました。糖尿病というさまざまなタイプの患者さんと接する今、その経験は大いに役立っています」と笑顔で話す。
「人間が好き、人と話すのが好きだからこの分野を専攻した」と言うとおり、話す内容が理路整然としていて分かりやすい。難しい専門用語は極力使わず、平易な言葉に置き換えて説明するので、患者の理解度も高まる。
進化する糖尿病治療。しかし、医療技術を成果に結び付けるには、患者自身が治療内容を理解し、納得できるように説明する必要がある。
「例えば近年は早期インスリン治療といって、比較的早い段階の糖尿病患者にインスリンの自己注射を行うケースが出てきました。しかし、『インスリン注射は最終手段』と考え、治療に否定的な姿勢を示す患者もいる。
そんな人には、インスリンは飲み薬にできないこと、まずはインスリンで血糖を正常にして膵臓を休ませることの重要性を説きます。
その上で、何よりインスリンはもともと体内で分泌されるホルモンで、インスリン注射は少なくなったホルモンを補充するだけのことであり、異物を注入するわけではないことを丁寧に説明します。その丁寧さを省いてしまうと理解は得られません」
そう語り、糖尿病治療を「患者さんに生き方を見つめ直してもらうこと」と表現する。
長年の実績から培われた対話術を武器に、精度の高い糖尿病治療に取り組む田中医師。その姿は、経験豊富な学校の教師の姿を想起させる。
糖尿病治療は医師との付き合いも長くなる。田中医師の診察室に漂う信頼感と安心感が、患者の治療への意欲を優しく後押しする。 (長田昭二)
■田中逸(たなか・やすし) 1955年京都府生まれ。
名古屋工業大学を卒業後、大手自動車会社に勤務。その後、滋賀医科大学に進み86年卒業。同大第三内科、東京都済生会中央病院に勤務後、順天堂大学助教授を経て、2006年より現職。日本糖尿病学会専門医・研修指導医、日本内分泌学会専門医・研修指導医ほか。NPO法人「川崎糖尿病スクエア」理事長。
名古屋駅桜通口から徒歩5分。ビジネスビルの3階にある「名古屋膠原(こうげん)病リウマチ痛風クリニック」は、名前からも分かる通り、リウマチと膠原病、痛風や骨粗鬆(こつそしょう)症の診断と治療に特化した専門クリニック。
開業は2年前。すでに中部地方全域のみならず、大阪や東京など遠方から通院する患者も増えている。
院長の玉置繁憲医師は、三重県内の中核病院で、これらの疾患を専門に診てきた経歴を持つ内科医だ。
「病院の勤務医だと、経歴が長くなるとどうしても管理職としての業務のウエートが大きくなってくる。それよりもっと患者と向き合える時間を取りたかった」と開業の背景を語る。
大学卒業後は消化器内科に進んだ。
「当時は免疫学が劇的に発展した時期。医師としての成長とともに免疫学の発展を肌身で感じました。その後、自己免疫性疾患である膠原病を専門にしたのも自然の成り行きでした」
よく産科や小児科、救急などの医師が少ないことから医療崩壊が叫ばれるが、玉置医師によると膠原病内科も目立たないだけで、実は医療崩壊が深刻なだという。
「複雑な免疫疾患は若い医師からも『難病』として敬遠されます」
そんな中で、「管理より臨床」との思いから、通院に便利な都市部に専門クリニックができたことは、患者にとっては大きな朗報となった。
「この領域に詳しい医師が少ないことは、単に診てくれる医師が少ないだけでなく、有効な治療法が開発されても、それが普及しにくい問題にもつながっている。ここでは新しい治療法を積極的に導入し、患者だけでなく、同業者である医療者にも広く発信していきたい」
そう語る玉置医師の口調は穏やかだが、一言ひとことに込められた思いの熱さは確実に伝わって来る。多くの患者から支持される理由がよくわかる。
■玉置繁憲(たまき・しげのり) 1958年大阪府生まれ。
85年、三重大学医学部卒業。同大学院修了。同大附属病院、公立紀南病院、国立三重中央病院(現・三重中央医療センター)勤務後、2011年より現職。現在、三重大学医学部臨床講師を兼任。日本リウマチ学会認定リウマチ専門医ほか。医学博士。
「自分で奇跡を起こす方法」(フォレスト出版)などの著書で知られる井上裕之氏。
ベストセラーの著者であり、講演会を開けば1000人を超える聴衆を集めることもある人気講師。経営コンサルトとしても高い知名度を持つが、本業は、北海道の帯広市で歯科医院を経営する歯科医師だ。
知識と技術に確固たる自信を持ち、その高度な技術をみじんの無駄もなく提供するためのシステムを構築。患者は国内はもとより、海外からもやって来る。
「世界に通用する診療をしたかった。そのためには何が必要かを考え、追求した結果がこのクリニックです」と胸を張る。その組織は、「安心、安全な医療機関」という井上氏の理念に基づき、国際標準化機構の規格ISO9001と14001を取得している。
「私が自信を持つだけでは意味がない。医療は客観的な評価の上に成り立つもの。そう考えれば国際標準での評価を求めるのは当然のこと」
徹底的にシステム化された環境で、高度に教育されたスタッフによって実践される診療は高い品質と効率性をもたらす。
「無駄がないから手術が早い。2日間で12人のインプラント治療をパーフェクトな形で遂行できるのは、私の技術だけでなくパワーパートナーとしてのスタッフの力量にもよるもの。私はそのリーダーとしてのマネジメントに力を入れるべきです。このクリニックはその実践の場なんです」
自己満足ではない、社会が求める医療を提供すべき-という理念を後進に伝えるため、忙しい臨床の合間を縫って大学でも教鞭(きょうべん)をとる。
「どんなに忙しくても、仕事が楽しいから疲れない。次の仕事へのビジョンを考えることが、趣味と言えば趣味ですかね(笑)」
北の大地から世界に向けて、真の医療のあるべき姿を発信する。 (長田昭二)
■井上裕之(いのうえ・ひろゆき) 1963年、北海道生まれ。東京歯科大学大学院修了。米・ニューヨーク大学ほかで学ぶ。現在、医療法人社団いのうえ歯科医院理事長のほか、島根大学医学部臨床教授、東京歯科大学と北海道医療大学非常勤講師、ブカレスト大学とインディアナ大学歯学部の客員講師、ニューヨーク大学歯学部インプラントプログラムリーダー。歯学博士、経営学博士。最新著書は「人もお金もついてくるリーダーの哲学」(すばる舎、1470円)
神奈川県・相鉄線さがみ野駅からバスで5分。閑静な住宅地に建つ「武内歯科医院」の武内博朗院長は、地域医療で“予防と健康づくり”に力を入れる著名な歯科医師。
歯周病に対する徹底した予防処置を講じることで、全身疾患を未然に防ぎ、口腔(こうくう)内だけでなく全身のアンチエイジングの実現をめざす。中でも特徴的なのが、軽度歯周病への取り組みだ。
「歯科に限らず一般に定期健診は、病気を見つけることが目的です。しかしこの施設では、病気になるプロセスの変化を察知して、口腔疾患やその先にある全身疾患を未然に防ぐことを目的としたリスク低減治療を行っています。定期検診ではなく、まさに“定期予防処置”です」
近年、口腔疾患、特に歯周病と全身疾患の関連が指摘され始めた。開業前は、研究者として免疫システムの解明に取り組んでいた武内院長にとって、この分野に対する思い入れは大きい。
「歯周病が進行すると、歯周ポケットの細菌や毒素が歯茎の血管から血液に入り込む“菌血症”という病態に移行する。これは糖尿病や動脈硬化、さらには心筋梗塞や脳梗塞などの原因になると分かっています。これを丁寧に説明し、口腔環境の衛生を保つ重要性を理解してもらうことが、定期予防処置の第一歩なのです」
歯の表面から除去した歯垢を電子顕微鏡で患者に見せて、悪玉菌の多さや活性度を知らせ、事の重大さを理解させる。
「患者も、歯周病と全身疾患の関係を正しく理解すれば、3カ月に一度の定期予防処置が“面倒なこと”ではなくなる。ここが定期検診とは違います」と笑う武内院長。
こうした武内院長の取り組みが、口腔環境の向上のみならず、健康寿命の上昇をアシストする。
■武内博朗(たけうち・ひろあき) 1962年、神奈川県横須賀市生まれ。87年、日本大学歯学部卒業。91年、横浜市立大学医学研究科大学院修了。同大医学部附属病院歯科・口腔外科常勤特別職診療医。93年より独・マックスブランク研究所、同ハイデルベルク大学留学。帰国後、横浜市大非常勤講師、国立予防衛生研究所口腔科学部研究員を経て、99年、武内歯科医院を継承し院長。現在、鶴見大学歯学部臨床教授、日本大学歯学部兼任講師。医学博士。趣味はスキー、登山、日本拳法。
埼玉県久喜市菖蒲町。緑豊かな田園風景も残る静かな町に、今春、一軒のクリニックがオープンした。重城泌尿器科クリニックがそれだ。
院長の重城裕医師は、大学病院、泌尿器科専門病院、そして地域密着型病院という、あらゆるタイプの医療機関で実績を積んできた泌尿器科医。その豊富な経験を生かして、泌尿器科領域のプライマリケア(初期診療)の充実を目指し、このクリニックを立ち上げた。
「実は今でも隔週手術をしに埼玉県央病院に行っているんです」と話すように、自身のクリニックで手術の適応があり、患者が希望すれば、開業前まで勤務していた病院に出向いて執刀する。まさにオールラウンドの泌尿器科医だ。
特に力を入れているのが、前立腺肥大症の治療。状況に応じて侵襲が小さく、しかも効果の大きい治療を選択することで、患者満足度を高めている。
「薬で症状を抑えられる場合は、α1ブロッカーが第一選択。前立腺の筋肉を緩めて排尿しやすくする効果があります。副作用が少ないので、非常に使いやすい薬です」
他にも5α還元酵素阻害薬や黄体ホルモンなど、内科的治療には幅があるが、重城医師は「その人にとって最善の治療法を選ぶ事が重要」と、精度の高い診断に力を入れる。
一方、手術も、内視鏡手術で2500例以上の症例数を持つ。また症例を選べば、経尿道的前立腺高温度治療や、ホルミウムレーザー前立腺蒸散術のような出血量の少ない技術で好成績を残す。
「このあたりは医療機関が少ないエリア。そんな中で、地域に役立つ存在となり、大学病院と同等の治療ができれば」と語る重城医師。
これまで培ってきた経験と実績を、真新しいクリニックで還元する。
■重城裕(じゅうじょう・ゆたか) 1956年、京都府生まれ。甲南大学理学部から聖マリアンナ医科大学へ進み、87年、卒業。同大泌尿器科に入局。同大学病院、同横浜市西部病院、平田病院(函館市)、埼玉県央病院に勤務。2013年、重城泌尿器科クリニックを開設し院長。日本泌尿器科学会泌尿器科専門医・指導医。趣味は、剣道とミュージカル鑑賞。
「たとえ有効性と安全性に優れた技術であっても、その医者にしかできない技術では意味がない。私たちが目指すのは、この技術が広く、正しく普及して、世界中の誰もがこの治療の恩恵を受けられるようになること」
そう語るのは、山形大学医学部耳鼻咽喉・頭頸部外科の欠畑(かけはた)誠治教授。内視鏡を用いた耳の手術で、世界的知名度を持つ医師だ。
先天性奇形や外傷による耳の障害、また中耳真珠腫のように、聴力に影響を及ぼす危険性のある疾患に対し、低侵襲(患者の受けるダメージが小さい)治療の開発に取り組み、臨床に導入してきた。
「他の診療科同様、耳の手術も以前は“大きく切る”のが一般的でした。しかし、それは患者本位の治療ではない。顕微鏡を用いた手術もありますが、より安全で確実性の高い手術が内視鏡ならできるのでは-と考えたのが始まりです」
切除部を細切れにすることなく“連続して取る”ことで、取り残しや再発を防ぐ。器具の改良や手技の工夫で、従来不可能とされていた部分にも、内視鏡でのアプローチを可能にした。
まさにゼロからのスタート。
「初めは異端視されましたよ」と苦笑。だが、その取り組みは国際的に評価され、一躍世界中の耳鼻咽喉科医が注目する存在となっていく。
現在はイタリアやフランスなどの耳鼻咽喉科医らと組織するワーキンググループの代表の1人として忙しい毎日だ。
冒頭の発言通り、耳の内視鏡手術に興味を持つ医師の育成に向けて、すべての資料を公開し、講演や指導に出向くことも多い。
「日本の中で山形は一地方都市に過ぎないかもしれないけれど、“耳の内視鏡手術”においては世界のトップを走っている自負があります。東京や大阪ではなく、山形に世界の最先端があるなんて、ちょっと夢があるじゃないですか(笑)」
銀色に輝く蔵王連峰を望む研究室から、欠畑医師は世界を見つめている。 (長田昭二)
■欠畑誠治(かけはた・せいじ) 1957年青森県七戸町生まれ。
東大理科I類から東北大医学部に進み、87年卒業。93年同大学院修了。東北大医学部助手、米・エール大研究員、弘前大講師、同准教授などを経て、2011年より現職。日本耳科学会理事・評議員、日本聴覚医学会並びに日本耳鼻咽喉科免疫アレルギー学会評議員ほか。医学博士。趣味はサッカー観戦とフットサル。
高齢社会、超高齢社会への進展は、いや応なく「がん」を身近な存在に引き寄せる。自分や家族が、がんになった時のことを、真剣に考えないわけにはいかない時代だ。
日本人は「生死に直結する病気は大病院で」と考えがちだが、命に関わるからこそ、自分の住む町で治療を受けるべき-と考える医師がいる。
静岡県浜松市中区の渡辺医院・浜松オンコロジーセンターは、入院ベッドを持たない診療所。ここで、外来のみの化学療法が行われている。
院長の渡辺亨医師は、国立がん研究センターなど、日本のがん治療の中枢で活躍していた腫瘍内科医。
大規模病院で外来化学療法を担当していた当時、「せっかく外来でできる治療なのに、遠方の患者は泊まりがけで治療を受けに来る。これでは入院治療と変わらない」との思いを強くし、自身の故郷・浜松で、外来化学療法に対応した診療所を立ち上げた。
「“街角がん診療”と呼んでいます。都会に行かなくても、居住地域で、東京や大阪と同じ水準のがん治療を行えばいいだけのこと。それを実証することが、このクリニックの目的です」
がんという病気をトータルで診るためには、手術や検査設備を持つ医療機関との連携が不可欠。
そうした連携病院とも同じ意識、同じ認識で診療に当たれるよう、渡辺医師が旗振り役となり、浜松エリアのがん治療医や医療従事者との勉強会組織を立ち上げ、情報の共有化にも力を入れる。
「こうしたシステムは浜松だけにあっても意味がない。コンビニのように、全国に点在して初めて“街角がん診療”は成り立つんです。そのためにも、ここでの失敗は許されませんからね」という渡辺医師。
地域完結型がん治療の芽が、浜松から育ち始めている。 (長田昭二)
■渡辺亨(わたなべ・とおる) 1955年、静岡県生まれ。80年、北海道大学医学部卒業。米国留学を経て、国立がんセンター(現・国立がん研究センター)中央病院内科医長。国際医療福祉大学臨床医学センター教授、山王メディカルプラザ・オンコロジーセンター長を歴任し、2005年より現職。趣味はシーカヤック。
JR秋葉原駅を降りて目の前のビルにある「秋葉原駅クリニック」。院長の大和田潔医師は、夕刊フジの僚紙SANKEI EXPRESSで医療コラムの連載を持つほか、「副作用-その薬が危ない」など話題の本の著者としても知られる気鋭の神経内科医。
得意の頭痛治療をはじめ、脳卒中やアルツハイマー、パーキンソン病などの診断でも豊富な実績を持つ。
「神経内科は、患者と一緒に粘り強く病気と闘っていく診療科。そこに医療の本質があると思うし、自分の性格にも合っているので」と笑う。
基幹病院で救急医療の実績を重ね、満を持しての開業となったが、特に強い開業志向があったわけではないという。
「患者さんから『先生に診てもらえてよかった』と言ってもらえる医療が提供できるなら、病院でもクリニックでもどっちでもいいんです」
しかし、大規模病院と違って、クリニックなら必ずお目当ての医師に診てもらえる。著書や新聞を読んで大和田医師の診察を希望する患者が、遠方からもやって来る。
現在のクリニックでは、神経内科領域だけでなく、内科全般のプライマリケア(初期診療)を対象としている。特に力を入れるのが、メタボリックシンドローム対策だ。
「運動をすると脳が活性化されて、その影響で内臓脂肪が燃焼されていくことがわかってきた。これにより、メタボは脳の病気かもしれない-という神経内科的な仮説が立つのです。単に“運動すれば痩せる”という各論ではなく、メタボという現象の全体像を明らかにした上で、生理学に立脚した指導をしていくことが現在の目標です」
臨床で積み重ねた実績を元に病態解明を進め、それを新聞や著書で解説していく。まさに八面六臂(ろっぴ)の活躍を続けるスーパー開業医が、有名電気街のど真ん中にいる事実を、まずは知っておくべきだろう。 (長田昭二)
■大和田潔(おおわだ・きよし) 1965年東京都生まれ。福島県立医科大学卒業、東京医科歯科大学大学院修了。東京都立広尾病院、武蔵野赤十字病院などに勤務後、2007年、秋葉原駅クリニックを開業し院長。現在、東京医科歯科大学臨床教授を兼任。医学博士。趣味は水泳と走ること。最新著書は「糖尿病になる人 痛風になる人」(祥伝社新書、819円)。
なぜ医師という職業を選んだのですか-という問いに、「“病気を治す”という社会的ミッションがハッキリしていてわかりやすい職業だから」と明解に答える。昭和大学江東豊洲病院眼科准教授の笹元威宏(たけひろ)医師の診療姿勢が、この一言に現れている。
「感覚器に興味があった」との理由から眼科を専攻し、白内障や糖尿病性網膜症、網膜剥離(はくり)などの手術を中心に治療実績を重ねてきた。
「若い頃に見た上司の手術から、『美しく終わる手術は、視力もよくなる』ということを学びました」と語るように、安全で精度の高い手術へのこだわりは大きい。特に心がけるのは、「目に負担をかけない手術」だ。
「人の目には、大きな違いはない半面、百人いれば百通りの目があるのも事実。手術時間を短くすることに興味はありません。それよりも、危ない操作をすることなく、自分のベストパフォーマンスを発揮できて初めて、手術を美しく終えることができると信じています」
そのモットーを実践するため、日頃のコンディショニングにも注意を注ぎ、出張先の病院でも、普段通りの手術ができる“応用力”も身に付けた。
手術の手技を高める一方で、患者の心のケアにも力を入れる。
「眼科には、完全に視力を失ってしまった患者も訪れます。そんな方の心に寄り添うことで、『目は見えないけれど、不幸ではない』と思えるような診療をしたいんです」
2014年に現在の場所に病院が新築移転した際には、新病院立ち上げの準備チームの中核的存在として活躍した。その経験から、チームとしての団結力の大切さを学んだという笹元医師。
高度な技術と豊富な実績、そして患者に寄り添う心-。笹元医師の目は、患者と地域住民の健康を、つねに捉えている。 (長田昭二)
■笹元威宏(ささもと・たけひろ) 1973年、横浜市生まれ。99年、昭和大学医学部卒業。同大眼科学講座入局後、同大学病院、山近記念総合病院(神奈川県小田原市)、三友堂病院(山形県米沢市)などに勤務。2014年より現職。医学博士。趣味はゴルフ。
名古屋市中心部から車で40分。愛知県大府市にある国立長寿医療健康センターは、日本で唯一「長寿科学」「老年医学」に関する専門的な研究に取り組む独立行政法人。ここで手術・集中治療部長を務める吉田正貴医師は、泌尿器科医として高い実績を持つ。
長年にわたり故郷熊本で臨床と研究に携わってきたが、昨年請われて現在の病院にやってきた。
前立腺がんや前立腺肥大症、さらには腎臓疾患と、泌尿器科領域を広範囲にカバーする。
「もともと研究が好きだったので」と語る通り、臨床に対する姿勢も理論的。エビデンス(証拠)に基づく診療姿勢を崩さないが、その合間合間に、豊富な経験が生み出す柔軟な対応に、温かい人間味があふれ出る。
例えば前立腺肥大症の治療。単に症状を改善するだけではなく、患者が求める優先順位に応じ、薬を選ぶようにしているという。
「薬物療法ではα1ブロッカーという薬が第一選択ですが、特に尿の勢いをよくしたいならシドロシン、副作用の射精障害を回避したいならタムスロシン…と、微妙に薬を使い分けるだけでも、患者の生活の質は違ってきます」
前立腺肥大症の手術においても、高い専門性を発揮する。吉田医師の診療科では今年、最新のレーザー機器を導入し、出血の少ない手術を実現している。
「前立腺肥大症の患者の中には、医師に相談することを恥ずかしがって受診をためらう人も少なくない。でも、肥大症の検査の過程で前立腺がんが見つかることもあります。60歳を過ぎて、排尿障害や夜間頻尿などの症状があるなら、まず一度検査を受けてほしい」と呼びかける。
優しい笑顔と温厚な語り口が、緊張をほぐしてくれる。同じ相談するなら、こういう医師にしたいものだ。 (長田昭二)
■吉田正貴(よしだ・まさき) 1955年、熊本県生まれ。
81年、熊本大学医学部卒業。同大医学部泌尿器科入局。同大学病院、熊本労災病院などに勤務。熊本大准教授などを経て、2012年から現職。日本泌尿器科学会、ならびに日本腎臓学会専門医・指導医。日本排尿機能学会理事ほか。医学博士。
なぜ医師という職業を選んだのですか-という問いに、「“病気を治す”という社会的ミッションがハッキリしていてわかりやすい職業だから」と明解に答える。昭和大学江東豊洲病院眼科准教授の笹元威宏(たけひろ)医師の診療姿勢が、この一言に現れている。
「感覚器に興味があった」との理由から眼科を専攻し、白内障や糖尿病性網膜症、網膜剥離(はくり)などの手術を中心に治療実績を重ねてきた。
「若い頃に見た上司の手術から、『美しく終わる手術は、視力もよくなる』ということを学びました」と語るように、安全で精度の高い手術へのこだわりは大きい。特に心がけるのは、「目に負担をかけない手術」だ。
「人の目には、大きな違いはない半面、百人いれば百通りの目があるのも事実。手術時間を短くすることに興味はありません。それよりも、危ない操作をすることなく、自分のベストパフォーマンスを発揮できて初めて、手術を美しく終えることができると信じています」
そのモットーを実践するため、日頃のコンディショニングにも注意を注ぎ、出張先の病院でも、普段通りの手術ができる“応用力”も身に付けた。
手術の手技を高める一方で、患者の心のケアにも力を入れる。
「眼科には、完全に視力を失ってしまった患者も訪れます。そんな方の心に寄り添うことで、『目は見えないけれど、不幸ではない』と思えるような診療をしたいんです」
2014年に現在の場所に病院が新築移転した際には、新病院立ち上げの準備チームの中核的存在として活躍した。その経験から、チームとしての団結力の大切さを学んだという笹元医師。
高度な技術と豊富な実績、そして患者に寄り添う心-。笹元医師の目は、患者と地域住民の健康を、つねに捉えている。 (長田昭二)
■笹元威宏(ささもと・たけひろ) 1973年、横浜市生まれ。99年、昭和大学医学部卒業。同大眼科学講座入局後、同大学病院、山近記念総合病院(神奈川県小田原市)、三友堂病院(山形県米沢市)などに勤務。2014年より現職。医学博士。趣味はゴルフ。
患者数1170万人。予備軍を含めると、その数は2210万人にも上るとされる糖尿病。国民病とも言えるこの病気に立ち向かう若きリーダーが兵庫県尼崎市にいる。
阪急神戸線「塚口駅」からすぐの池田病院は、開院40年の歴史を持つ糖尿病専門病院。創業者である父を継ぎ、今春から院長として病院運営の舵を取る池田弘毅医師は、「医者になるなら糖尿病と決めていた」と言う、糖尿病治療のサラブレッドだ。
初期には症状がなく、出た時には進行している糖尿病。症状がないうちにどこまで治療ができるかが勝負となるのだが、無症状の人がそう簡単に治療に向き合えるものでもない。
「まずは糖尿病を放置したらどんな恐ろしい結末が待っているのかを正しく理解してもらい、その上で“できる範囲”のことから取り組んでもらうようサポートしていきます。できないことを言ったところで続きませんからね(笑)」
病気が進んでいく時は“悪い連鎖”に陥っているが、その鎖を断ち切ることで、“良い連鎖”に向かわせることは可能だと池田医師はいう。
「早期でのインスリン治療の導入などは、まさに悪い連鎖を断ち切る上で重要な手段。断ち切ることができれば、後にインスリンから離脱できることも多い。食事療法も型通りの制限食にこだわらず、個人の好みも取り入れ、今より少しでも良い内容になるよう、具体的に指導します。
そうすることで積極性が出るし、治療の成果が数値となって出てくれば、患者自身もうれしくなる。治療に前向きになれるものなんです」
遠方に転勤した患者が、その後も池田医師の治療を求めて通ってくるケースも珍しくない。糖尿病治療は長い付き合いになるからこそ、名医、良医との関係は重要なのだ。(長田昭二)
■いけだ・ひろき 1971年兵庫県生まれ。
98年長崎大学医学部を卒業後、京都大学医学部附属病院内科研修医。国立姫路医療センター勤務の後、2001年京大大学院医学研究科進学。05年同修了。北野病院糖尿病内分泌センター副部長を経て、09年池田病院内科部長。今年4月より現職。日本内科学会認定医。日本糖尿病学会専門医・学術評議員。医学博士。趣味は料理。
小田急線と地下鉄千代田線の代々木上原駅から徒歩5分。閑静な住宅地に建つ「みさき眼科クリニック」は、地域密着型の眼科診療所。地元出身の石岡みさき医師は、「生まれ育った渋谷に貢献したい」との思いで、5年前、現在の地で開業した。
開業前はぶどう膜炎、ドライアイ、アレルギーなどを研究テーマとし、現在は眼科領域の初期診療全般を網羅した診療体制を敷く。中でもドライアイとアレルギーの診断と治療の精度の高さには定評があり、噂を聞きつけた患者は広く関東全域から通ってくる。
そんな石岡医師のモットーは「無駄のない医療」。必要のない検査や投薬は行わず、無駄に治療が長期化しないよう心がけている。
「経営的に見れば何度も通ってもらったほうがいいのかもしれないですが、それじゃ地元貢献にならないし…」と苦笑い。
そんな診療姿勢は地域に浸透し、「気軽に相談できる目医者さん」として信頼も厚い。
治療の一方で予防医学にも力を入れる。
「例えば“ドルーゼン”という病態があります。目の老廃物がたまったもので、これ自体は病気ではないものの、将来、黄斑変性症に進展する危険性が高い。この場合には専用の抗酸化作用を持つサプリメントで予防効果が得られることが分かっています」
病気になってから治すだけでない。病気にならないようにするのも、かかりつけ医の大きな役割なのだ。
最近はスマートフォンの普及による疲れ目やドライアイを訴えて受診する患者が急増している。目を酷使する現代人にとって、眼科医の重要性は増すばかりだ。
「受診した時に、その人の目の情報がすべてそろっているクリニックでありたい」と語る石岡医師。“目のかかりつけ医”としての誇りがそこにある。
■いしおか・みさき 1989年、横浜市立大学医学部卒業。同大学病院、同大学院を経て米・ハーバード大学に留学。帰国後、東京歯科大学市川総合病院に勤務。98年、両国眼科クリニック院長。2008年より現職。医学博士、眼科専門医。横浜市立大学医学部眼科講師。趣味は刺繍(ししゅう)、文章を書くこと、新しい企画を立てること。
忘年会は今がピーク。仕事の合間を縫って「今日で3回目」「今年の忘年会はあと2回」という人もいるだろうが、血糖値スパイクに気をつけた方がいい。糖尿病を発症させたり、老化が早まるばかりでなく、心筋梗塞や脳梗塞などによる突然死の危険を高める。糖尿病専門医で「AGE牧田クリニック」(東京・銀座)の牧田善二院長に聞いた。
「忘年会などの酒席には、ただでさえ血糖を上げやすいお酒や食べ物がたくさんあります。ここぞとばかりに飲食すると、糖分を大量かつ一遍に体内に吸収することになり、血糖値スパイクが起きやすくなります」
血糖値スパイクとは食後の短時間に血糖値が急上昇し、やがて正常値に戻ることをいう。糖尿病の人に見られる現象だが、最近の研究では一見糖尿病でない人の中にも同じような現象が起きていることがわかったという。空腹時血糖値だけを調べる通常の健康診断では見つからないためで、日本人の1400万人以上に血糖値スパイクが生じているともいわれる。
「血糖値スパイクが怖いのは、放っておくと本格的な糖尿病を発症するだけでなく、心筋梗塞や脳梗塞、認知症などの引き金となる動脈硬化を起こすことです。血糖値の急上昇・急降下を繰り返すと、血管の内壁の細胞から有害物質である活性酸素が大量に発生します。それが血管の内壁を傷つけ、修復するために集まった免疫細胞が血管の内壁に潜り込んで血管を硬く、狭くするのです」
動脈硬化は血管の老化だ。それが進むというのは、それだけ早く老けることでもある。
「動脈は心臓から送り出される血液とともに、酸素や栄養を全身に運ぶパイプの役割を担っています。しかも、動脈自ら収縮や弛緩することで、血液がスムーズに流れるよう手助けをしています。ところが、動脈の弾力性が失われ、血管内が狭くなると血液が流れにくくなり、全身の細胞が酸素不足・栄養不足となって衰えていくのです」
■いかに糖質をゆっくり少しずつ腸に入れるか
では、忘年会ではどんなことに気をつければいいのか?
「お酒はできたらワインや焼酎を選びましょう。血糖値を下げてくれます。日本酒や紹興酒などには糖質が含まれているので極力控えましょう。危険なのはジュースなどで割ったサワーやカクテル。糖分が多く、避けた方が無難です」
お酒を飲み過ぎると、肝臓に脂肪がたまり、インスリンの効き目が悪くなる。結果、血糖値スパイクにつながる。
おつまみは、おかきやチーズ類などは血糖を上げるが、食べ物で特に気をつけたいのが、お好み焼き。特に専用ソースには糖質が多く入っている。頭に入れておこう。
「血糖値を抑えるのに重要なのは、いかに糖質をゆっくり少しずつ腸に入れるかです。そのためには食べる順番が大切。野菜や肉を先に食べるようにして、糖質の多いものは後から食べるようにしましょう」
また、“今日は忘年会でしっかり食べるから”と朝食や昼食を抜くのもダメ。ドカ食いにつながる。食べ方もちびちび食べるのがいい。寝不足、ストレスを抱えたままだと、インスリンの出や効き目が悪くなり、血糖値スパイクが起きやすくなる。忘年会にはしっかり寝て、仕事の憂いをなくして出席することに努めるべきだ。
「ひとつの所に座り続けてお酒を飲むのもよくありません。おしゃくをするなど、体をちょこちょこ動かして、胃腸に集まった血液を分散させることが、結果的に血糖値の上昇を抑えることにつながるのです」
あくまでも忘年会はおしゃべりを楽しむもの。過度の飲食は慎むことだ。
いま、医療界で「大圃(おおはた)組」とよばれるエリート集団が話題になっている。内視鏡治療の名手として国際的な知名度を誇るNTT東日本関東病院内視鏡部長の大圃研医師が率いるスペシャリストの集まりだ。
大圃医師の下で指導を受けた内視鏡医たちが各地に散り、たたき込まれた高度な技術をそれぞれの地域で存分に発揮する-。今回紹介する千葉秀幸医師は、まさにそんな大圃一門の中核的存在だ。
「僕のアピールポイントですか…。あきらめの悪さですね(笑)」
内視鏡手術に入る前、患者とその家族に向かって「全力を尽くします」と必ず宣言する。医師から見れば毎日の仕事でも、患者にとっては一生に一度あるかないかの経験。簡単にあきらめるものではないし、性格的にもあきらめられないのだ。
「窮地に立ったとき、大圃先生ならどうするか…って考えます。そして患者、家族の顔を思い出すと、答えは簡単で『手がもげるまで頑張れ』なんですよ」
それでいて「安全性」には人一倍のこだわりを持つ。そのために千葉医師が手術のモットーとしているのが「きれいな手術」。
「切除した標本が美しいときは、手術が安全に成功したことを意味します。単に切るだけでなく、美しく仕上げてこそのプロだと思うし、そこだけは忘れないようにしたい」
千葉医師の勤務する大森赤十字病院は、東邦大学医療センター大森病院や昭和大学病院など、大規模病院の競合エリア。しかし、千葉医師が来てから確実に内視鏡治療の実績は高まっている。
「トリッキーなことをするのではなく、地道に全体の底上げをしていけばいいと思っています。地域の診療所との連携を密にし、地域医療に貢献したい」と千葉医師。
大森に国内屈指の技術を持つ内視鏡医がいるということを、まずは覚えておきたい。
■千葉秀幸(ちば・ひでゆき) 1979年、東京都生まれ。2004年、金沢大学医学部卒業。横浜市立大学医学部消化器内科入局。平塚市民病院、NTT東日本関東病院に勤務の後、12年から現職。日本消化器内視鏡学会専門医・指導医他。医学博士。趣味はプロ野球観戦と読書。
がんの中で最も「たちの悪いがん」とされ、治療法の難しさや予後の悪さもあって医療者からも嫌われる存在の「膵(すい)がん」。この膵がん撲滅を目指して医師になり、日々その目的達成に向けて努力を重ねる外科医がいる。
東京医大病院の永川裕一医師は、やはり膵臓外科医の父を持ち、子供の頃から人間と医学の前に立ちはだかる膵がんの手ごわさを感じて育った。
「医学部に進んだ時点で、膵がん以外の分野は考えていなかった」と言うだけあり、医師になってからもめざす方向性がブレることはなかった。
途中2年間、病理学教室に学んだのも同じ理由によるもの。
「膵臓でがんが進んでいくメカニズム、そして治療によって起き得る合併症を知っておきたかった。敵(がん)の生態を熟知しなければ、戦略的な手術はできませんからね」と、徹底した専門性の高さを追求する。
早期発見が難しいこのがんは、見つかった時点で「手術不可」と判断されることが多い。
しかし、積極的な姿勢を崩さない永川医師は、抗がん剤や放射線を組み合わせた術前治療を行うことで、「手術に持ち込める方法」を模索し、実践する。他院で「手術不可」と診断された患者でも、永川医師の治療によって手術が実現したケースも少なくない。
消化器がんの中で手術の難易度の高さはトップクラス。手術時間が6時間以上に及ぶことも珍しくない膵がんだが、「不思議と疲れないんですよ」と笑顔で語る永川医師。その豊富な経験と知識が編み出す出血量の少ない手術が、「あきらめない膵がん治療」の根底にあることは間違いない。
■ながかわ・ゆういち 1969年金沢市生まれ。94年東京医科大学を卒業し、同大消化器外科入局。東京医大八王子医療センター、同大病理学教室、米ジョーンズホプキンス大学、戸田中央総合病院を経て、2006年より現職。医学博士。趣味は「たまに映画を観に行くこと」。