あなたの健康はお金で買えますか・・・? ■日本の名医・いい病院
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よい病院と医師の見分け方 患者の立場でのチェックポイント

いい病院の条件© マネーポストWEB 提供 いい病院の条件

 病気になったときに、頼りになるのが病院。だが、かかる病院、診療する医師によって、治療内容だけでなく、治療費にも大きな差が生まれることがある。はたして、どうすれば安心して命を預けられる病院と医師を見分けられるのか。みつばち大阪クリニック院長の橋本惠さんは外見からも、いい医師がいる病院はある程度見分けられると主張する。

「スタッフの間に和気藹々とした雰囲気があることは重要。1人の患者さんを囲み、どういう治療がいいか忌憚なく話すためには、普段からの人間関係の構築が必要です。医師個人についていえば、医局人事や自己研鑽でいろいろな職場を経験してきた人の方が多くの知見を目にする機会があり、治療の幅の広まりが期待できます。病院が公表する手術数も参考にしていい。ただし、“成功率”をホームページに掲載する病院には落とし穴が。難しい症例を敬遠する傾向にあります」

 受付や事務員などスタッフ同士のコミュニケーションが取れているか、目を向けてみよう。いざ診察室に入ったらまず確認すべきは“時間”だ。湘南鎌倉総合病院・院長代行の小林修三さんが説明する。

「患者にどれだけ時間をかけているかは1つのチェックポイントです。初診の場合であれば15~30分は欲しいところ。混んでいるときに相談を持ちかけたとしても邪険にせず “今日は難しいけれど来週なら時間を取るから”など代案を出してくれる医師も、その後の治療で親身になってくれる可能性が高い」

 施設の様子にも注目しよう。医療サービスアドバイザーでコンサルタントの武田哲男さんはこう話す。

「絵を飾り植物などを置いてある医療機関はいい病院である傾向があり、そのうえ季節ごとに替えたり、手入れするだけの余裕があることがわかる。スタッフに心のゆとりがあるからこそ、医療も行き届くのです」

 最近は必須となった「コロナ対策」の内容もひとつの指標となる。

「発熱者とそれ以外の人の動線や窓口を分けたり換気をしっかりしたりするなど、コロナ対策をどのくらい丁寧にしているかもその病院が信用に足るかの物差しになります。たとえ大病院でなく、古い施設であっても努力が垣間見えるところはいい病院だといえるでしょう」(橋本さん)

 これらに加え、新しい評価基準として覚えておきたいのが「JCI認証」だ。

「アメリカで創設された医療分野の第三者評価機関が審査するもので、1200項目からなるチェックを受けて合格しなければならない厳しい基準です。災害時だけでなくすべての面における安全性が担保されているか、質の向上に取り組んでいるかなど病院にある程度の余裕がなければ取得は難しい。

 実際、その調査対象は医師や看護師だけでなく清掃スタッフなど広範囲に及びます。有名医師がいるとか、テレビによく出る病院という基準で選ぶより、JCI認証を取得しているかどうかをホームページなどでチェックする方が簡単だし、取得していればいい病院である確率が高い」(小林さん)

 もしいま通っている病院がこれらのチェックポイントに当てはまらないのであれば、病院を移ることも検討したい。その際、医師への対応は慎重に。

「時間帯が合わなくなった、親の介護で実家の近くのクリニックに通うことになった、など波風が立たない理由を作るのも手です。転院に関しては“嘘も方便”。医師に気持ちよく紹介状を書いてもらうことに注力した方がいいでしょう」(橋本さん)

 いざ医師と対峙するときには、良好なコミュニケーションを取ることを意識したい。

「医師も人間です。たとえば急にノートを出して『騙されるもんか』というポーズをとられたり、延々と自分の話だけを語られたりすれば、さすがに身構えます。まずは挨拶をして、信頼関係を作ることが大切です」(小林さん)

 病気や治療について、知識をつけておくことも重要だ。医療ジャーナリストの増田美加さんは言う。

「”何もわかりません””お任せします”ではなく“自分はこう思うが先生のご意見は”などと具体的に尋ねましょう。医師も患者の希望がわかるので、それに沿った治療を進めてもらいやすい」

 岩澤さんも多くの取材経験から知識をつける大切さを痛感している。

「多くのがんサバイバーに取材しましたが、全員に共通していたのが、自分の病状について医師と同じくらい勉強し、知識を持っていたことでした。正しい情報を得るためには取捨選択が必要です。特にインターネットの情報は玉石混交。見極める目を持ってほしい。たとえばがん治療に関して信頼できるのは国立がん研究センターによる『がん情報サービス』、虫歯治療なら『日本歯科保存学会』のガイドラインなどがおすすめです」

 目の前の医師を名医にするかどうかは、あなた次第ともいえるのだ。

※女性セブン2021年12月9日号

【日本の名医】3カ国語武器に在留外国人初期診療の受け皿 上海で勤務経験も 西麻布インターナショナルクリニック院長・三上哲さん

旅行や出張で海外に出かけたとき、少しでも体調が悪くなると「どうやって医者にかかればいいのだろう」と不安になるものだ。同じことは日本に来ている外国人にも言える。そこで、在留外国人に少しでも快適な医療環境の提供を-との思いから開設されたのが、西麻布インターナショナルクリニック(東京都港区)。院長の三上哲医師はその設立意図をこう語る。

 「上海のクリニックに勤務していた時に、日本を含む海外からの渡航者が受ける医療水準の低さを見て衝撃を受けたのです。振り返って日本にいる在留外国人はどうか-と考えた時、その受け皿の必要性を強く感じて開業に踏み切りました」

 日本語と英語、それに上海で習得した中国語を武器に、在留外国人の初期診療を積極的に受け入れる。クチコミでその存在が伝わり、現在は受診者の4割を外国人が占めるまでになる。

 一方で、日本人患者を対象とした地域医療の充実にも力を入れる。一般内科、小児科、泌尿器科を中心に、救命救急センターで培った技術と知識をフルに活かした質の高いプライマリケア(初期診療)も特色の一つだ。

 「患者さんの訴えから、それが緊急性のある症状なのか否かを判別し、正しく理解してもらうことに重きを置いています」

 新型コロナウイルスの感染拡大の初期には、発熱患者の受入れに制限をかける医療機関が多かったが、三上医師はいち早く発熱外来を開設。ここでも救急外来での経験が遺憾なく発揮された形だ。

 外来診療と並行して在宅医療にも対応。まさに「赤ちゃんからお年寄りまで」に「外国人」を加えた、きわめて間口の広い医療を展開する三上医師。新しい形の都市型医療の在り方を、鮮明に提示し続ける。 (長田昭二)

 ■三上哲(みかみ・あきら) 西麻布インターナショナルクリニック院長。1984年、京都市生まれ。宮崎大学医学部卒業後、順天堂大学医学部附属順天堂医院で研修。その後聖路加国際病院救命救急センター救命救急センターでチーフレジデント、エデュケーショナルチーフを歴任。2017年から現職。日本救急医学会、日本集中治療医学会、日本抗加齢医学会の各専門医。日本旅行医学会認定医。趣味はサーフィン。

【日本の名医】肥満治療チームで支える 東邦大学医療センター佐倉病院糖尿病・内分泌・代謝センター 龍野一郎教授

京成電鉄ユーカリが丘駅からバスで7-8分。緑豊かな丘陵に立つ東邦大学医療センター佐倉病院(千葉県佐倉市)は、病床数451。高度医療と地域医療に力を入れる中核病院だ。

 ここの副院長で「糖尿病・内分泌・代謝センター」の教授を務める龍野一郎医師は、糖尿病治療に加えて「高度肥満」の治療分野で全国的に知られる内科医だ。

 EPAやDHAといった「魚油」の有効性解明に黎明期から関わり、その後はアメリカにわたって神経ホルモンの研究に従事した学究肌。その経験が今、糖尿病や肥満治療に生かされている。

 「研究者としての経験は、医者が持ちがちな“思い込み”にブレーキをかけてくれる。臨床の場でも、“常識”に対する柔軟性が必要な場面は多いですからね」と笑顔で語る。

 龍野医師が得意とする肥満治療は、内科と外科、そして精神科によるチームで進められる。内科治療でも改善しない重症の肥満では外科手術を視野に入れる。

その治療の過程でメンタル面からも関わっていくことが、「減量まで」だけではなく、「減量後」を含むトータルな支援体制を構築する。

 「過食をもたらす食欲の亢進(こうしん)は本能です。人のメンタルとも強く結びつき、肥満手術をしただけ、栄養療法をしただけで、食欲の亢進は改善するわけではないのです」

 糖尿病も肥満症も、治療は長期間に及びがち。そこに焦りは禁物だが、龍野医師は言う。

 「患者と寄り添う気持ちが大事なんです。患者を叱るのではなく、ともに病気を理解し、今の状態に気付いてもらうことが大事。そして改善すれば、一緒に喜ぶのです」

 その温かな笑顔は、名医ならではの包容力。不安に満ちた患者の心に、深い安心感をもたらしてくれる。 (長田昭二)

 ■龍野一郎(たつの・いちろう) 1957年、島根県生まれ。82年、千葉大学医学部を卒業し、同大医学部第二内科入局。89年、米・チューレン大学留学。その後、千葉大講師、助教授、准教授を経て、11年より東邦大学医療センター佐倉病院糖尿病・内分泌・代謝センター教授。現在、同院副院長と栄養部長を兼務。日本内科学会認定総合内科専門医、日本内分泌学会認定内分泌代謝科指導医、日本糖尿病学会糖尿病研修指導医他。医学博士。趣味は料理。

【日本の名医】高い向上心とチームワークで心臓を守る 総合病院聖隷浜松病院心臓血管外科部長・小出昌秋さん

総合病院聖隷浜松病院は、静岡県西部を代表する民間の大規模基幹病院。ここの心臓血管外科部長を務める小出昌秋医師は、小児心臓外科手術や心臓弁膜症の領域で高い知名度を持つ心臓外科医である。

 自身が医学部の時に父が弁膜症と診断され、この病院で手術を受けた。医学生であることから特に手術室への入室を認められた小出青年は、その時に執刀した大沢幹夫医師の技術に魅了され、心臓外科を志望。大沢医師に弟子入りした。

 「大沢先生が、子供から高齢者まで幅広く診ておられたこともあり、私も小児から学ぶことにしました」(小出医師)

 昔はなかなか治らなかった小児の先天性心臓疾患も、近年は手術成績が上昇し、成人になってからも引き続き小出医師が担当する患者も少なくない。

 一方の成人の手術では、弁膜症に対するTAVI(経カテーテル的大動脈弁置換術)や、インペラ(補助循環用ポンプカテーテル)など、最新の血管内治療を県内でいち早く導入するなど、先進的な取り組みをけん引してきた。

 「こうした治療は、私一人でできるものではなく、チームが揃って高いレベルを維持して初めて成り立つもの」と語る小出医師に、チーム医療の水準を高く保つための取り組みを聞いた。

 「現状に満足しないことに尽きます。私自身がつねに上を目指し続けることで、スタッフも同じ方向を向く。この病院は、そうした風土が醸成されているのが強みです」

 手術前日には患者のデータを何度も精読し、イメージする仕上がりを絵に描いて頭に叩き込む。

 「事前の準備を怠らないことが何より重要。準備が万全なら、突発的なアクシデントにも慌てずに対応できますから」。基本順守と結束したチームワークを武器に、地域の“心臓”を守り抜く。(長田昭二)

 ■小出昌秋(こいで・まさあき) 1961年静岡県袋井市生まれ。86年、新潟大学医学部卒業。東京女子医科大学心研外科、福山循環器病院外科、千葉県こども病院心臓血管外科、米サウスカロライナ州医科大学循環器科等を経て、98年から聖隷浜松病院心臓血管外科。2002年から同部長。現在院長補佐、循環器センター長等を兼務。日本胸部外科学会指導医、日本小児循環器学会評議員他。医学博士。

【日本の名医】一般人からスポーツ選手まで…膝治療“最後の砦” 国際医療福祉大学医学部整形外科学・長島正樹さん

★国際医療福祉大学医学部整形外科学 准教授・長島正樹さん(43)

 東京タワーからほど近い東京都港区三田にある国際福祉医療大学三田病院。ここの整形外科副部長を務める長島正樹医師は、「膝の疾患」を専門にする整形外科医。

 「イチローや松井秀喜のようなトップアスリートを支える医師になりたくて医学部に進みました」と語る長島医師。夢がかなって整形外科に入局したが、実際に当時のスポーツ整形の現場に出てみると、想像していた世界とは様子が違った。

 「選手は、医者よりもトレーナーとの絆が強い。そして、時に医学的な見解よりも選手やチームの思いが尊重される。ならば、本当に選手が医療を必要としたときに役に立てる立場に徹しようと考えたんです」

 選手に帯同するスポーツドクターではなく、ケガをしたときの“最後の砦”として、裏方に徹する決意をする。

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 靭帯(じんたい)再建や人工膝関節置換術などの症例を重ね、多くの競技選手やチームドクターからの信頼を築いていく。たとえば膝の「前十字靭帯」をケガすると、手術をしても、一般的には故障前の競技レベルに戻るのは難しいとされる。

 しかし、長島医師の患者の中には、手術によってケガをする前よりも成績がよくなったプロ野球選手もいる。

 「ケガを克服して活躍する姿を見るとやっぱりうれしいし、同じケガをした人に希望を与えてくれますよね」

 診療対象はスポーツ選手に限定せず、普段は一般整形外科の膝治療に取り組む。

 「手術後の膝の角度や立った時の姿勢を頭に描いて手術計画を立てて、あとは一つ一つの手順を丁寧に進めていくだけ。患者さんが競技選手でも近所のおばあちゃんでも、やることは同じ。丁寧に、丁寧に…」

 自分の足で、歩いて退院していく姿を見ることを楽しみに、一人ひとりの患者を、人懐こい笑顔で受け入れる。(長田昭二)

 ■長島正樹(ながしま・まさき) 1975年、埼玉県生まれ。2001年、慶應義塾大学医学部を卒業し、同大医学部整形外科入局。09年、北里研究所病院整形外科・人工関節センター医長。12年、国際医療福祉大学三田病院整形外科講師。その後同科副部長を経て15年から准教授。17年から現職。日本体育協会認定スポーツ医。日本整形外科学会専門医。医学博士。趣味はワインと野球観戦(「ナガシマ」つながりで巨人ファン)。

【日本の名医】肝機能障害改善を目的に再生医療スタート 番町診療所表参道院長・山田正文さん

★番町診療所表参道(東京都渋谷区)院長・山田正文さん(60)

 急速に進化する「再生医療」の分野で、新たな展開を見せる領域がある。東京・表参道にある番町診療所表参道院長の山田正文医師がいま取り組んでいるのが、「肝機能改善を目的とした再生医療」だ。

 同クリニックでは以前から、変形性膝関節症の治療の一環として「自家幹細胞培養治療」と呼ばれる再生医療を行ってきた。この経験と技術を応用して、「肝機能障害」を改善する目的で再生医療をスタートさせることになったのだ。

 「基本的な治療の流れは“膝”と同じです。患者の腹部から少量の脂肪を採取して、そこから体性幹細胞を分離・培養して患者の体に戻すのです。膝の治療では膝の関節内に直接注入するのに対して、肝機能障害の治療では点滴で投与する点が異なるだけのこと」

 血管に入った幹細胞は全身を巡り、肝臓において機能修復に向けて働いてくれるというのだ。

 「ウイルス性肝炎やアルコール性肝炎はもちろん、近年増えているNASH(非アルコール性脂肪肝炎)などの人たちは、肝硬変や肝がんに移行させないことが大事です。そのためには、現状の肝機能を悪化させないことが重要になるわけで、そこに有用な再生医療の位置付けは大きいと感じています」

 同クリニックでは現在、厚生労働省に申請中で、認可が下りれば8月中にも治療をスタートさせたいという。

 開業当初から全国に先駆けて高性能MRIを導入したり、軽度認知障害(MCI)の簡易検査の普及に取り組んだりと、常に最先端の医療技術を取り入れてきた。

 もう一つの特色は、「きめ細かな予防医療」をテーマにした人間ドックや専門ドック。その充実にも力を注ぐ。目指す医療の進化は加速度を増している。(長田昭二)

 ■山田正文(やまだ・まさふみ) 1958年、東京都生まれ。北里大学卒業後、慶應義塾大学医学部麻酔科入局。94年、番町診療所(東京都千代田区)を開設し院長。2008年、渋谷区神宮前に移転し、クリニック名を「番町診療所表参道」に改称。慶大麻酔科非常勤講師。日本ペインクリニック学会認定専門医、日本医師会認定産業医。医学博士。

最期まで自分らしく生きる がんの緩和的放射線療法とは

先月15日に亡くなった女優・樹木希林さんの死に際をうらやましく思うシニア世代も多いはずだ。全身がんを患いながら、生活の質を下げかねない手術や治療を拒否し、最期まで女優と家庭のことを全うした。現在、がんで苦しんでいる人の中には「56年ぶりに日本で行われる東京五輪は見てから死にたい」という人も多いだろう。

そこで注目したいのががんの緩和的放射線療法だ。痛みや呼吸困難などの症状を緩和し、生活の質を維持するのを目的とした治療法だ。どんなものか? 「JCHO東京新宿メディカルセンター」(東京・飯田橋)放射線治療科の黒﨑弘正部長に聞いた。放射線治療は目的により3つに大別できる。根治的放射線治療、補助的放射線治療、緩和的放射線治療だ。治的放射線治療は、放射線治療でがんを撲滅することが目的で、早期の咽頭がんや上咽頭がん、前立腺がんは放射線治療だけで根治が可能といわれている。

 最近は、抗がん剤と組み合わせたり、免疫チェックポイント阻害剤との併用がトレンドだ。補助的放射線治療とは手術の前後に行うもので、最も有名なのは乳房温存療法後の放射線治療照射だ。かつては5週間ワンクールとされたものの、最近では3週間でもあまり変わりがないとされている。

 一方、緩和的放射線治療とはがんを治すのが目的ではなく、痛みや苦しみをとる治療法だ。骨転移での痛みの除去、脳転移によるふらつきや意識障害を取り除くことが目的になる。

「放射線治療には、がんの根治や再発・転移のリスクを軽減するために照射する以外に神経への圧迫を取り除いて症状を和らげる緩和照射があります。根治目的の照射と違って線量を下げて行われるので高齢者や体力のない人でも受けられるのがメリットです」

■骨の痛みがとれたり、顔の腫れが引く

 50代の女性は卵巣がんの手術を受けたものの、がんが肺や骨盤、肝臓に転移。抗がん剤も思ったような効果を得られず、徐々に腹膜播種による骨盤腫瘍が大きくなった。やがて尿管を圧迫して水腎症と呼ばれる状態となり、腰痛も訴えるようになったという。

「この患者さんは放射線治療をしている最中に痛みが減っていき、7カ月後のCTでは照射された骨盤の腫瘍はすっかり消えていました。また水腎症も消えていました。残念ながらその後、脳や肝臓に転移が見つかりましたが、そのたびに放射線治療を行い、がんとの共生を図っています。がんが進行していくと、貧血が進みますが、ほかの病院ではあまりない放射線治療科病棟があるので、適切な処置を施すことができます」

 おかげでこの患者は、余命宣告されて13カ月過ぎても生き続けたという。
 60代で胃がんと診断され、手術後1年を迎えた男性は抗がん剤治療後に緩和的放射線治療を行っているという。

「この患者さんは帰省で1週間ほど治療が空いた間に閉塞性黄疸という全身が黄色くなってしまう症状に襲われました。ただちに放射線治療科病棟に入院して放射線治療をしながら、消化器内科と連携して胆道にステントをつくり、黄疸を軽減させました。結局、黄疸のマーカーであるビリルビン値は入院時15だったのが、放射線治療後には正常値の1までに下がりました」

 また、他院で末期の腎臓がんと診断された会社経営者は放射線で痛みを取る治療を続けた結果、2年以上元気に過ごすことができたという。この方は温泉地で盛大に宴会を開くなど元気を取り戻しました。しかし、それで本人も家族も“治った”と勘違いしたため、会社の相続の手続きが遅れてしまったと聞きました」

 他にも、肺がんで上大静脈症候群を発症、血液が顔や上腕から心臓に戻らなくなり、パンパンに腫れたままになった患者も緩和的放射線治療で救われるケースが多いという。 「肺がんの患者さんの中によく見かける症状です。このときは上大静脈に放射線をかけることで血流が戻り、顔や腕の腫れは引きます」

 末期のがん患者の70%は強い痛みに苦しむ。とくに骨転移の場合はその苦しみは強く、モルヒネといった医療麻薬を使うと生活の質が大きく下がってしまう。最近は1回の注射で全身の痛みが取れる「メタストロン」などの疼痛治療法もある。がんと共生する方法として、緩和的放射線治療があることも覚えておくことだ。

【日本の名医】王貞治氏の主治医… 「ミスター外科医・北島政樹」が求める“優しき医療”とは?

プロ野球のスーパースター、王貞治氏の主治医としても知られる北島政樹氏は消化器外科の名医だ。「ミスター外科医」とも称されるその輝かしい経歴は、内視鏡手術をはじめ最先端医療へのチャレンジの連続でもあった。

現在も漢方薬の科学的解明に取り組むなど、新たな挑戦への熱意はとどまるところを知らない。何が北島氏を駆り立てるのか。遠く見つめる「医療の未来」を聞いた。

 --医療の革新的な技術に、いつも先陣を切ってこられました

北島 患者さんには「優しい医療」を受ける権利があります。開腹手術では体調回復は悪い。そこでもっと患者さんの負担を小さくしようと考えました。一人一人に合った侵襲(体への影響や負担)が少ない治療です。内視鏡手術なら、痛みは少なく回復も早いですからね。

 --チャレンジ精神は、どう培われるのですか

北島 慶応大学医学部の伝統の一つですが、初代医学部長の北里柴三郎先生は、慶応には基礎医学と臨床医学を融合して一家族のような医学部を創りたいと語っています。私はその言葉が非常に素晴らしいと思うのですが、その理念ですね。私自身も米国留学時に、恩師から「外科医は技術を切磋琢磨し上手になろうとするが、サイエンスに支えられた技術でないとだめだ」と言われました。

 --こうした教えを実践されたということですね

北島 そうです。慶応に戻り、医学部と理工学部の連携を率先しました。「医工連携」で誕生したのが、ロボット手術とか内視鏡手術です。驚くことに、1881年に福沢諭吉先生は、論説「医術の進歩」で、「将来、視学の器械が進歩するに従って、あたかも口の中を見るがごとく子宮、直腸、胃の裏まで見ることができる」と予見しているのです。「医術は外科より進歩するものなり」とも言われていた。私も若い人に「君たち、まさしく福沢先生は内視鏡外科のことをおっしゃっているんだぞ」と常々言ってきました。

 --昔は「外科医は大規模な切開手術ができて一人前」という雰囲気もあったと聞きますが

北島 ありましたね。私自身そういう時代に育ちました。胸やおなかを開けて、「リンパ腺を90個取ったけど、転移がなくてよかった」という時代でした。1987年にフランスのモーレ先生が初めて腹腔鏡で内視鏡下胆嚢摘出手術をしましたが、当時は私も「外科医のやることではない」と思いました。しかし、患者さんの体調回復が全然違うんですよ。「これはやらなければならない」と考え、慶応で若い医局員と始めたのです。しかし、内視鏡手術は外科医にとっては大変なんですよ。

 --技術的に難しいのですか

北島 開腹すれば触った感じが分かります。しかし内視鏡手術は画面を見ながらだから立体感がない。企業や理工学部と一緒に、堅いとか柔らかいという触覚を持った鉗子を作ったのです。その触覚を20キロも離れた場所に転送することにも成功しました。精密にすれば遠隔手術も可能ということで腹腔鏡ロボットで手術の実験もしましたね。イソップ2000というロボットは英語しか通じないんですよ。「ターン・トゥ・ザ・ライト」と言うと内視鏡がピュッと右に動くんです。

 --漢方薬の科学的解明に取り組まれていますが、漢方薬に関心を持たれたのはなぜですか

北島 1999年、生イカを食べて私自身が腸閉塞になり入院しました。その時、大建中湯という漢方薬に出合ったのです。西洋薬の効果は極端で、うまくおなかのコントロールができなかったのが、漢方では非常に穏やかな状態となったのです。

■北島政樹(きたじま・まさき) 昭和16(1941)年、神奈川県生まれ。71歳。慶応大学医学部卒。米マサチューセッツ総合病院外科フェローや杏林大学第一外科教授などを経て、1991年慶応大学医学部外科教授。同大病院長、同大医学部長などを歴任。万国外科学会会長、日本癌治療学会理事長、日本コンピュータ外科学会理事長、日本内視鏡外科学会理事長、国際消化器外科学会会長のほか、世界最高峰の医学雑誌「New England Journal of Medicine」の編集委員を務める。

【日本の名医】身近な名医院…耳鳴り、難聴で高度医療★山川耳鼻咽喉科医院院長の山川卓也さん(52)

東京メトロ銀座線・外苑前駅から徒歩1分のビルの3階に、近隣で働くサラリーマンやOL、さらには地域住民で賑わう耳鼻咽喉科医院がある。順天堂大学耳鼻咽喉科講師だった山川卓也医師が、ここにクリニックを開業して14年。今では、地域になくてはならない存在だ。

 「医者になった時は開業するつもりはなかったんですが…」と笑う山川医師。しかし、何事にも手を抜けない性格が災いし、過労とストレスから倒れてしまった。

何事にも熱中する性格は変えられない。ならば自分の責任と裁量で、やりたいことに集中できる開業医のほうがいいのでは-と考え、3年間の準備期間を経て現在のクリニックを開設した。

 「大学病院に行かなくても、ここに来れば十分な医療が受けられるクリニック」というコンセプトの下、積極的な設備投資をした結果、耳鼻科領域のあらゆる検査はもちろん、副鼻腔炎やいびき症、鼻のレーザーや中耳炎など、

日帰り可能な外科手術にも対応する高度で身近なクリニックとして存在感を増していく。

 中でも聴覚生理を専門とし、聴覚検査や補聴器の処方、難聴検査や耳鳴りの治療では遠方からも患者がやって来る。

 「耳鳴りなどは、患者の訴えに医師がどこまで耳を傾けるかで治療成果は変わってくる。私の場合、患者さんの話を聞くのが好き、というか、話を聞くことがストレス解消法なんですよ」

 温厚で物静かな語り口。しかしその説明には無駄がなく、豊かな表現力は患者の理解を深める。

 「本当は在宅医療もやりたいんです。高齢者の嚥下(えんげ)機能を改善すると、食事の質が高まり、それだけで生きる希望が湧いてくる。でも、やり始めると、また熱中してしまいそうで…」

 山川医師が楽しみながら没頭する“激務”から解放される日は、当分訪れる気配がなさそうだ。 (長田昭二)

■山川卓也(やまかわ・たくや) 1960年東京都生まれ。86年、順天堂大学医学部を卒業し、同大耳鼻咽喉科学教室入局。同講師を経て、98年、山川耳鼻咽喉科医院を開設し院長。日本耳鼻咽喉科学会代議員ほか。医学博士。趣味は「犬と遊ぶこと」。

【日本の名医】“循環器内科のジェネラリスト” 心臓治療後に手厚いリハビリ★昭和大学病院(東京・品川区)講師 木庭新治さん(49)

東急大井町線と池上線が交差する東京都品川区の旗の台。ここにある昭和大学病院の循環器内科で講師を務める木庭新治医師は、人間の最重要臓器である「心臓」に関わるさまざまな病気を診断、治療するだけでなく、生活習慣を含むフォローアップまでを受け持つ“循環器内科のジェネラリスト”。

 「実家のある場所では三代。でも詳しく調べると十数代続いた医者の家系」というサラブレッド。そんな木庭医師が“心臓”を専門に選んだのは、全身の循環に興味があったからだという。

 近年、循環器内科といえば、カテーテルを用いた血管内治療が隆盛だ。以前なら開胸手術が当たり前だったような症例も、手術をすることなく、低侵襲で命を救えるようになった。

 木庭医師もそうした治療に携わっていた。だが、この10年ほどは同じ循環器内科でも、新しい領域、心臓リハビリテーションという分野に活躍の場を広げている。

 心筋梗塞や不整脈の治療後、あるいは冠動脈バイパス手術などを受けた後に、心臓に負荷をかけながら機能回復をはかっていく訓練。ここでは単なる運動だけでなく、栄養や生活面での取り組みが重要になってくる。

 「一般の認知度は高くないですが、バイパス手術後の天皇陛下がこのリハビリを受けられたことで注目を集めました。このリハビリをするのとしないのとでは、治療後の予後が大きく違ってくることが明らかになっています。メタボや糖尿病の人などは予防的に取り入れると、心臓病の予防にもつながる内容です」

 もちろん外来では心臓病全般を診る。今後は心疾患と関連する他科の疾患、特にうつや睡眠時無呼吸症候群などとの関連についても研究したいと意欲を見せる。

 「心臓リハビリを担当するようになってから、臓器ではなく患者さんと付き合えるようになった気がするんです」と謙遜する木庭医師。その柔らかな笑顔が、治療効果に加え「深い安心感」を与えてくれる。(長田昭二)

 ■木庭新治(こば・しんじ) 1964年、神奈川県藤沢市生まれ。88年、昭和大学医学部卒業。同大循環器内科学教室入局。山梨赤十字病院、荻窪病院に勤務後、98年より現職。95年より2年間、米・テキサス州立大学ヒューストン校に留学。日本内科学会認定総合内科専門医。日本循環器学会認定循環器専門医。医学博士。趣味はスポーツ観戦と「たまにテニス」。

【日本の名医・父の教え】心臓外科医・天野篤さん 身の丈でできる仕事をきちんと

天皇陛下の心臓手術を執刀した心臓外科医として知られる天野篤さん(57)。手術成功率98%の確かな腕が世界的に評価される一方、3浪して医学部に進学し、出世街道以外の道から大学教授に上り詰めた異端の経歴が注目を集める。

 信条は「向き合った全ての命に全力を尽くす」。学歴よりも実力と人間力で患者さんの命を救ってみせる。そんな熱血医師を育てたのは父、甲子男(かしお)さんだ。

 甲子男さんは大正生まれの旧国鉄マン。終戦後の高度経済成長期には石炭やガスを扱う燃料商として働きながら、妻、よ志子さん(91)とともに3人の子供を育てた。

 感受性豊かで、歴史書などあらゆるジャンルの本を読むなど博学な一面もあった甲子男さん。旧制中学時代、戦争に動員されて大学進学は諦めたが、学歴よりも大切なことがあることを背中で教えた。

 天野さんの思い出の中に出てくる父は働き盛りの40代。顔を真っ黒にし、倉庫からガスボンベを軽トラックに積んでは「今、届けないと困る人がいるから」と、夜遅くなっても軽トラをお客さんの元に走らせた。

 「商売なのに、そこには商売っ気が全くなかった。僕は車の番をしながら、いつか父のように働けたらいいなと思ったものです」

 家族や仕事仲間を大切にし、町内会活動にも熱心に取り組んだ。子供たちに「勉強しなさい」「医者になりなさい」などと言ったことはない。そんな広い器に支えられ、天野さんはのびのび育った。

 しかし、天野さんが高校2年のとき、甲子男さんは心不全を繰り返し、心臓弁膜症と診断される。父を思う一心で天野さんは心臓外科医になった。しかし、平成2年、「この病院でならば」と熟慮した3度目の手術先で父は帰らぬ人となった。

しばらくはショックで立ち上げれなかった天野さんだが、どん底からはい上がらせてくれたのも、やはり父。「篤、私の分まで人生を生き抜くんだ。そして、人を助けるんだ」。そんな声が聞こえた気がし、父の死を絶対に無駄にしない決意をする。

 「人生で大事なのは身の丈でできる仕事をきちんとし、周囲に思いやりを持って接すること。そして、余力は周囲や社会に配ること。父が体現した教えを大切にしていきたい」

 父の死から20年以上が過ぎた今も、天野さんの心の中に父は生き続けている。

 ≪メッセ-ジ≫

 親父(おやじ)の器の広さ、包容力、慈悲深さは本当にすごいと思う。いつか僕も親父を超えたいと思っているけれど、まだまだです。

【プロフィル】天野甲子男

 あまの・かしお 大正13年、埼玉県出身。旧制粕壁中(現埼玉県立春日部高校)卒。中学時代に戦争に動員され、終戦後は旧国鉄で働く。昭和47年に心臓弁膜症を発症し、平成2年11月、66歳で死去。

【プロフィル】天野篤

 あまの・あつし 昭和30年、埼玉県出身。日本大医学部卒。亀田総合病院(千葉県鴨川市)などの民間病院に20年近く勤務。昭和大横浜市北部病院循環器病センター長・教授を経て平成14年、順天堂大学医学部教授。著書に『一途一心、命をつなぐ』(飛鳥新社)、『この道を生きる、心臓外科ひとすじ』(NHK出版)。

【日本の名医】歯科治療に機能と審美性 上質な環境で提供★新井デンタルクリニック院長新井誠二さん(45)

東急東横線と東京メトロ日比谷線が接続する中目黒。駅から5分ほど歩いた閑静な住宅地に建つ新井デンタルクリニックは、全診察室が個室化された「隠れ家的」な、高級志向の歯科医院。

新井誠二院長は、特に、インプラントと審美治療を得意とする歯科医師だ。

 「歯学部に入った時点で、いずれ開業するつもりでした」

 そう語る通り、大学卒業後は歯学部ではなく、あえて医学部の口腔(こうくう)外科で修業を積む。

がんや糖尿病など、全身疾患と歯科領域の関連性を学ぶことで、どんな患者にも対応できる汎用(はんよう)性の高い歯科技術を身に付けようと考えたのだ。

 向上心は途切れない。臨床の歯科医師を対象とするインプラント治療のエリート養成学校に進学し、首席で卒業。そのままインストラクターとして後進の指導に当たるほどの高い技術を手にした2004年、満を持して開業する。

 「口腔外科での経験から、顎の解剖が頭にたたき込まれているんです。

例えばインプラントを埋め込む時など、神経の細かな位置を知っているので、安全かつ確実な手術ができる。この微妙な違いが、インプラントの装着感や使用感だけでなく耐用年数にも影響してくるんです」

 顔の造形や生活習慣の違いなどからトータルな治療計画をいくつか提案し、患者とディスカッションの上でゴールを目指すのが、新井院長のこだわり。その診療姿勢はクチコミで広まり、現在、初診者の7割が「患者からの紹介」だ。

 新井院長が掲げるモットーは、「機能と審美性の調和」。単に治すだけではなく、そこに重ね合わせる“美しさ”を追求することで、患者満足度を高めていく。

 最先端の臨床現場で身に付けた高度な技術を、上質な医療環境で提供する。都市型歯科診療の一つの提案がここにある。 

 ■新井誠二(あらい・せいじ) 1969年、山口県生まれ。97年奥羽大学歯学部を卒業し、福岡大学医学部歯科口腔(こうくう)外科入局。白十字病院歯科口腔外科医長、国際デンタルアカデミー診療外科部長を経て、2004年、新井デンタルクリニックを開設し院長。

日本口腔外科学会、日本口腔インプラント学会、日本口腔インプラント臨床研究会、顎咬合学会、米国歯周病学会各会員。米国デンタルインプラント学会認定医。趣味はウェイクボード。

【日本の名医】変わりゆく前立腺肥大症治療 手術一辺倒から投薬 患者のQOL考え★練馬総合病院泌尿器科科長・林暁さん(58)

がんやEDと並んで、小紙読者にとって最も身近な病気の一つ、「前立腺肥大症」。この病気の診断と治療技術の高さで知られる泌尿器科医が、東京・練馬にいる。

 練馬総合病院泌尿器科科長を務める林暁医師は、前立腺肥大症や尿路結石治療のスペシャリスト。

 昔は手術するしかなかった前立腺肥大症。林医師も数多くの手術を手掛けてきたが、最近は様相が変わってきたという。

 「前立腺の中を通る尿道を広げ、ぼうこうの収縮力を高める作用を持つα1ブロッカーという薬の登場で、手術をしなくても症状を大きく改善できるようになったんです。

他にも前立腺そのものを小さくする薬や過活動ぼうこうを抑制する薬もあるので、手術をする機会がめっきり減りました。本当は手術も得意なんですけど」と苦笑い。

 もちろん、手術の適応患者には安全性の高い手術を行う。特に患者が高齢者の場合、手術を避けてカテーテルという管を尿管に留置する手段が取られるケースが多いが、林医師は患者のQOL(生活の質)を下げないため、積極的に手術を行うという。

 「カテーテルを留置すると、単に行動範囲を狭めるだけでなく、感染症のリスクも高めます。高齢者だから-という理由で最初から治療目標を低くすることはしたくないので」

 過去には100歳の患者に前立腺切除術を行い、高いQOLを取り戻した実績もある。

 一方、尿路結石にも豊富な経験を武器に、音波を使って結石を砕く「体外衝撃波破砕術」と手術の二本柱で、地域医療のレベルアップに貢献している。

 高齢化を背景に、今後も泌尿器科領域の患者は一層増えていく。生活の質を落とさずに高い治療成果を得るためには、林医師のようなスペシャリストの存在が不可欠だ。 (長田昭二)

 ■林暁(はやし・さとる) 1956年、千葉県生まれ。83年、秋田大学医学部卒業。慶應義塾大学医学部外科に入局し、のちに泌尿器科に転科。大田原赤十字病院、川崎市立川崎病院、慶大病院、浦和市立病院、国立埼玉病院、西窪病院、立川共済病院などを経て、2006年より現職。現在、同院結石センター長を兼務。日本泌尿器科学会専門医・指導医。趣味は海釣り。

【日本の名医】洗いすぎがアトピーの温床 正しい「ベビースキンケア」発信★亀田総合病院皮膚科 医師 池田大志さん(37)

国内有数の大規模民間病院として高い知名度を持つ千葉県鴨川市の亀田総合病院。ここの皮膚科に勤務する池田大志(ひろし)医師は、アトピー性皮膚炎の治療や赤ちゃんのスキンケアなどの分野で近年、頭角を現す若手医師。

 「初期研修後は形成外科を専攻。ただ、将来のために見聞を広めることも大事だと思い、1年だけのつもりで皮膚科に行ってみたんです。そうしたら性に合っていた(笑)」

 医学の世界では「皮膚は内臓の鑑」と言われる。表面から見えない臓器であっても、異変があればそのサインが皮膚に現れることは珍しくない。「全身状態を診たい」と考えて皮膚科に進む医師は少なくないが、池田医師もまさにそんな一人だ。

 中でも現在、特に力を入れているのが「ベビースキンケア」だ。根っからの子供好きで、最初は小児科と形成外科のどちらに進むかで悩み抜いたという池田医師。それだけに赤ちゃんの“肌の健康”に対する思いは強い。

 「赤ちゃんに限らず清潔好きな日本人は“汚れを落としたい”思いから、必要以上に洗い過ぎていることが多い。これが本来、肌が持つバリア機能をそぎ落とす結果を招いており、湿疹やかぶれ、アトピーなどの温床になっているのです」

 大人は自分で病院に行けるが、赤ちゃんはそうもいかない。しかも原因が「子を思う親の優しさ」にあるとなれば、話はややこしくなる。

 「正しいスキンケアの知識を世界中に広めていきたいんです」と熱く語る池田医師。その一環として、自身が半年間の育休を取って経験した子育て記録に、ベビースキンケアの解説を連動させた本(プロフィル参照)を出版するなど、着実に夢の実現への布石を敷いている。

 育児に奮闘する全国のママたちをファンに持つ“イクメン医師”に、熱い視線が注がれている。 

 ■池田大志(いけだ・ひろし) 1977年、兵庫県明石市生まれ。2004年、徳島大学医学部卒業。健康保険鳴門病院(現・徳島県鳴門病院)で初期研修。06年より亀田総合病院形成外科。08年より同皮膚科。著書に「男が育休を取ってわかったこと」(セブン&アイ出版)。趣味はテニス、車、サックス演奏。

血液ドロドロって具体的にどういう意味?

■血液ドロドロの定義

 皆さんは、「血液がドロドロすること」のイメージをどのように持っていますか? どうもこれが世間一般では曖昧に話されているような気がします。

 「血液がドロドロする」ということをきちんと定義してみると、以下の3つの意味で捉えることができます。

(1)赤血球がかたくなること
(2)赤血球が濃いこと(ヘモグロビンの比率が高いこと)
(3)血漿成分のあぶらが多いこと

 (1)は、血液ドロドロの代表的な考え方です。赤血球は血液の血球成分の中で一番大きなものです。そして組織に酸素を届ける重要な働きを持つため、どんな細い血管でも柔軟にくぐり抜けていくしなやかさが必要です。

このしなやかさがなくなった状態がかたい赤血球といえます。赤血球のしなやかさを表す指標に、赤血球くぐり抜け試験があり、血液ドロドロの指標の一つとして用いられています。

 また(2)については、赤血球が単位血液量あたりに占める割合を表す「ヘマトクリット」を参考にします。このヘマトクリットが1上昇すると、血液粘性が4%上昇します。この血液粘性も血液ドロドロの指標の一つとして用いられています。

 血液中に中性脂肪やコレステロールが多いことが、(3)の血液ドロドロを引き起こします。

しかし、これはイメージであって実際に血液がドロドロ、つまり血液粘性を高める作用としては、赤血球のしなやかさやヘマトクリット値と比べると、無視できるくらい小さなものです。

 つまり血液ドロドロは、赤血球のしなやかさとヘマトクリットに依存していると考えられます。ここでいうドロドロとは、血液粘性が上昇したことで、組織への血流が遅くなり、酸素運搬効率が下がってしまうことです。

当然、この状態を放っておくことは、血管にも臓器にも良くないということになります。

■血液をサラサラにするメリットとは

 血液がドロドロになると、血液の流れが滞るため高い圧力を必要とします。これが血圧の上昇、つまり高血圧となるのです。そしてドロドロ血液は、血管の壁を傷つけてしまいます。

高い圧力とこのダメージがいつしか血管の壁に動脈硬化をつくり、血管の柔らかさを失わせてしまいます。

 血液がドロドロの状態であることは良くない、だからサラサラにしなければならない。この考え方はどうやら正しいようです。血液をサラサラな状態に保つことで、動脈硬化を予防できることは正しい認識だとおもいます。

■血液をサラサラにする方法

 血液がドロドロになることは、赤血球がかたくなること、ヘマトクリットが高くなることですので、赤血球を柔らかくする方法とヘマトクリットを高くしすぎない方法を考えればよいのです。

 赤血球を柔らかくする方法としては、クエン酸や酢酸が有効とされている報告があります。とくに街で見かける健康食品やサプリメントの中では、黒酢やEPAがこれに当たると考えてください。

黒酢を摂ることで血液をサラサラにする、また、青魚(EPAが多く含まれている)を多く摂ることで心筋梗塞を予防するという報告があります。

 ヘマトクリットを高くしすぎない方法は、血を濃くしないことなので、水分をしっかり取ることや低酸素の状態にならない(喫煙や肥満)ことです。水分摂取と禁煙は、とても大切なことです。

■賢い健康人のやっていること

 体に良いとされている食品をバランスよく摂り、水分をしっかり摂って、喫煙はしない。これが健康の秘けつなのでしょう。皆さんも、血液サラサラを目指して、なにか一つでも生活改善を行ってみてはいかがでしょうか?

死亡率が低い女医の患者 その対応力は男性医師も学ぶべき

コラム【Dr.中川のみんなで越えるがんの壁】

 女性をターゲットのひとつにした東京医大の“受験差別”が問題になっています。大学側は得点操作の理由として、女性医師が結婚や出産で離職すれば、系列病院の医師が不足する恐れがあるということを挙げているようです。戦力確保を狙うなら、私は女医をそろえる方がよりよい医療を提供できると思います。

 女性医師の実力を端的に示しているのが、米ハーバード大公衆衛生大学院の研究です。研究グループは2011~14年の間に米国の急性期病院に入院した65歳以上の高齢者約130万人を分析。「入院から30日以内の死亡率」「再入院率」などの項目で比較したところ、女性は男性に比べて「30日以内の死亡率」は0.4%、「再入院率」は0.6%低いことが明らかになったのです。

 この研究が行われた背景が、重要です。実は当時の米国の医療には、性差にともなうバイアスが生じていて、病院は病院で「重症な患者は、女性には難しいだろうから、男性に担当させよう」としたり、患者は患者で「女性は不安だから、男性に診てもらいたい」といったことがありました。はたして、医師の力量は男女で違うのか。それをきちんと調べる目的で始まったのが、米ハーバード大の研究です。

 事前の予測では、「性差なし」とみられていましたが、結果は紹介した通り。女性医師の方が、男性より治療結果が上回っていたのです。

 この研究結果が見逃せないのは、男性医師と女性医師で担当している患者の重症度を同レベルにそろえていること。調査の信頼性が、きわめて高いのです。

 私の部下は、およそ3分の1が女性。放射線治療分野に特化して、男女の実力を比べた調査はありませんが、みんなとても優秀です。万が一、私が患者として放射線治療を託すなら、個人的に女医に診てほしい。正直、そう思います。

■ガイドラインの説明ならAIで十分

 では、なぜ男女の医師で治療結果が変わるのでしょうか。がんはもちろん、いろいろな病気で研究結果にもとづいたガイドラインの作成が進んでいます。どこにいても、同じ状態の患者なら、同じ治療が受けられるようにするためです。そうすると、男女で差はないはずですが、違っていました。

 その差は、患者に寄り添ったコミュニケーションを取れるかどうか。そこが大きな違いだと思います。

 たとえば、肺がん検診で早期の肺がんが見つかったとします。早期なら手術か放射線でほぼ治ります。その2つの治療法は、肺がんの診療ガイドラインにも書かれていますが、それを杓子定規に説明しがちなのが男性医師で、「つらいですよね」「仕事も心配ですよね」などとショックを受けている患者の立場を考えながら、説明するのが女性医師です。

 今やAI(人工知能)の胃がん診断率は9割。杓子定規な診断や説明ならAIで十分でしょう。そういう時代になりつつあります。しかし、患者に寄り添う説明は、AIにはできません。それができるのが女性医師です。男性医師も患者に寄り添う対応が求められていると思います。

(中川恵一/東大医学部附属病院放射線科准教授)

【日本の名医】脳卒中治療のスーパードクター 上山博康先生

上山博康先生のプロフィール・実績等の紹介

(プロフィール)
1973年北海道大学医学部卒
その後道内の旭川、釧路、美唄などの関連施設で6年間研修
1980年秋田脳血管研究所勤務
1985年北海道大学医学部助手
日本脳神経外科学会
日本脳卒中の外科学会
日本脳卒中学会
日本脳神経外科学会認定医

(実績その他)
脳の病の“最後の砦”と呼ばれる旭川赤十字病院の脳神経外科部長を務めています。
脳卒中を引き起こす脳動脈瘤の手術を得意としています。この分野において「匠(たくみ)の手」として全国的に有名で、その腕を見込んで手術を依頼してくる手紙やメールがひっきりなしに届いているようですが、氏はその全てに目を通し、自ら返事を書いているそうです。

数々のメディアでその活躍ぶりが取り上げられており、、脳腫瘍のスーパードクターと言われる福島孝徳もTVで「もし僕が脳血管の手術を受けるなら上山先生にしてもらう」と話しており、まさにスーパードクターから評価されるスーパードクターという存在となっています。

上山博康氏が脳神経外科部長を務める旭川赤十字病院は、脳血管障害、脳腫瘍、頭部外傷を扱っており、道北の脳疾患治療の拠点として充実した設備、人員、体制を確保し診療を行っています。

同病院には上山氏を含めて脳神経外科学会専門医が10名在籍しており、日本脳神経外科学会の訓練施設(A項)の指定を受けています。年間500例以上の手術を行っていおり、脳動脈瘤手術件数は180件を超えますが、これは全国でもベスト10に入る症例数です。

 また、脳梗塞治療においても急性期治療から慢性期血行再建術に到るまで積極的な外科治療を行っており、日本の脳神経外科をリードする施設の一つとなっています。

(脳卒中治療に関する考え方・ポリシー)
~(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)~
「人生を手術する」モットーに、自分の力が必要と言われれば日本中の病院に足を運び、脳血管手術や脳腫瘍の摘出手術などを手がけています。

脳動脈瘤のクリッピング手術では年間300件・累計20,000近い手術を行い、「脳血管に関わる手術で日本一」「匠の手を持つ脳外科医」と呼ばれる存在となっています。

【日本の名医】蔡内科皮膚科クリニック院長、血を排出して病を改善

東京・新宿駅から京王新線で一駅。初台駅を出てすぐ目の前にある「蔡内科皮膚科クリニック」は、西洋医学でも東洋医学でもない、独自に開発した針きゅう技術などを駆使した治療で、さまざまな病気や不定愁訴の改善を目指す診療所。

 院長の蔡篤俊(さい・とくしゅん)医師は台湾生まれ。故郷で警察キャリアになるが、一念発起して日本に留学し、医学の道に踏み入る。

産婦人科と精神科で診療経験を重ねる中、既存の対症療法では根本的な治癒には結びつかない-との考えを持ち、世界中の論文を読みあさり、一つの真理にたどり着く。

 「すべての病気の源は●(=やまいだれに於の二点がにすい)血(おけつ)です。これを排出することなく、どんなに薬を使っても、手術をしても、根本的な改善は見込めません」(蔡医師)

 ●(=やまいだれに於の二点がにすい)血とは、血管外結合組織内で滞留した血液のこと。

そこで蔡医師は、カッピングという小さなお椀(わん)のような吸い玉と鍼、また鍼を通じて熱を伝えるお灸を使った「NAT鍼療法」という●(=やまいだれに於の二点がにすい)血排出技術を開発。これに体内の悪性物質を排泄(はいせつ)しやすくなるお茶を組み合わせた治療により、難治性の疾患を改善していく。

 アトピーや乾癬(かんせん)などの皮膚疾患を中心とした「●(=やまいだれに於の二点がにすい)血によって起きる疾患群」を「体内渋滞症候群」と呼ぶ蔡医師。血管外結合組織内で血流が“渋滞”することに起因する諸症状に高い効果を示すという。

 「古代中国やメソポタミアで、これと似た療法が行われていたという記録がありますが、現代医学を学んだ医師が、40年の臨床経験で身に付けた技術と経験を生かして、これをシステム化したのがNAT鍼療法です」

 そう語る蔡医師の元には、あらゆる治療を試したものの効果が得られなかった患者が全国から訪れる。

 蔡医師に師事した多くの医師が、国内はもとより、アメリカ、カナダ、台湾、マレーシア、中国など、世界各地で実践している。 「何をやっても治らない」と嘆く患者の“最後の砦”として、その存在感は高まっている。

【日本の名医】高精度の腹腔鏡手術 国内トップクラスの実績★大阪市立総合医療センター 肝胆膵外科副部長 金沢景繁さん(48)

今回紹介する金沢景繁(あきしげ)医師は、肝臓移植と腹腔鏡下肝切除術の分野で知られる消化器外科医。

 「移植医療に興味があり、心臓外科と肝臓外科のどちらに進むかで悩んだ末に肝臓外科へ。心臓外科も肝臓外科も、一般消化器外科と比べて手術時間も長く、いい意味での“ねちっこさ”が求められる分野です」

 この「ねちっこさ」は、もう一つの得意技術である腹腔鏡手術において、特に重要になるという。

 「患者のメリットをつねに考え、腹腔鏡でどこまで安全にできるか-を慎重に判断しながら手術を進めていくことが、新しい医療技術の健全な普及には不可欠です」

 また腹腔鏡手術は多くの最先端の手術機器を使用しながら進められる。

 「大切なのはチームワーク。外科医の他、麻酔科医や看護師、臨床工学士との連携を強めることで、安全で質の高い腹腔鏡手術が実現する」

 「安全性」には強いこだわりがある。腹腔鏡手術の途中で安全面に黄色信号がともった時を想定し、事前に小切開や開腹手術への移行を視野に入れた作戦を立てておく。

 「移植手術も腹腔鏡下手術も、経験と技術同様、慎重さが求められるし、努力しただけ患者の喜びも大きくなる。困難への挑戦が、大きな達成感をもたらしてくれる、やりがいのある仕事です」

 こうした実績と診療姿勢の評価は高く、腹腔鏡下肝切除術を希望する患者が西日本全域から紹介されて来る。同院で行われる年間120例ほどの肝切除術のうち、約7割が完全腹腔鏡下術。国内トップクラスの数字だ。

 腹腔鏡手術に対する強い信念を持ちながら、それを感じさせない柔和な笑顔が、患者に大きな安心感を与える。「安全」と「安心」が、患者と医師の心をつないでいる。 

■金沢景繁(かなざわ・あきしげ) 1991年、大阪市立大学医学部卒業。同大学院修了。第二外科に入局し関連病院に勤務後、京都大学医学部移植外科に6カ月間派遣。2000年、大阪市大に戻り、同大として1例目の生体肝移植を担当する。04年より、大阪市立総合医療センターに移り現職。医学博士。趣味はマラソン。

【日本の名医】前立腺治療に高い実績 手術なしで快適な排尿を★秀クリニック院長 高島秀夫さん(53)

東武東上線の下赤塚駅から徒歩5分、東京メトロ有楽町線地下鉄・赤塚駅からなら3分の住宅地に立つ「秀クリニック」は、泌尿器科、内科、皮膚科を看板とする地域密着型の診療所。

院長の高島秀夫医師は、大学病院や関連病院で多くの手術症例を持つ泌尿器科医だ。

 「患者の半分が内科疾患。残りの5割を泌尿器科と皮膚科の疾患が分け合う感じです」と説明する。その通り、開設から10年で、地域住民には不可欠な存在となった。

 専門の泌尿器科領域での知名度は高く、土曜日などは“シモの悩み”を訴えるサラリーマンが集結する。

 中でも多いのが前立腺肥大症。「頻尿」「勢いがない」といった症状を持つお父さんたちにとって、高島医師の存在は心強い。

 「昔と違って、今は薬物治療で大きな改善が見込める時代。α-1ブロッカーという薬で排尿をスムーズにするだけでも大きな効果が得られるし、デュタステリドという前立腺を小さくする薬もある。

これらの薬を効果的に使っていけば、多くの場合、手術をしなくても快適な排尿を取り戻すことが可能。結果として、医療費節減にもつながりますからね」

 かつては自身の執刀する手術によって、数多くの前立腺肥大症患者を救ってきた高島医師。その言葉からは、現在の治療薬の効果と安全性の高さが伺える。

 もちろんEDや性感染症、女性に多い過活動ぼうこうの治療にも積極的に取り組む。明るい人柄で「患者にとって恥ずかしい悩み」を打ち明けやすい雰囲気を醸し出す。

 「患者さんの表情や顔色を見ながら会話をすることで、相手のことを、より深く知る努力はしています」

 診察室にあふれる心地よい安心感は、そんな高島医師の人柄によるものなのだろう。 (長田昭二)

 ■高島秀夫(たかしま・ひでお) 1960年、東京都生まれ。北海道大学農学部から札幌医科大学に転じ、90年、卒業。同年、順天堂大学医学部泌尿器科入局。同大附属順天堂医院、越谷市立病院、三井記念病院、都立神経病院、同愛記念病院、江東病院などに勤務後、2004年、秀クリニックを開設し院長。趣味は水泳とドライブ。

【日本の名医】最前線の経験初期診療に生かす 急性期疾患や生活習慣病、そして早期発見★メディカルクリニック渋谷院長・岡野雄介さん(38)

JR渋谷駅新南口直結のホテルメッツ渋谷内にある「メディカルクリニック渋谷」。院長を務める岡野雄介医師は、3年前まで大学病院で肝胆膵領域を対象とした外科治療の最前線に立っていた消化器外科医。

外科で培った経験と知識を予防医学に役立てようと、開業医の道に踏み出した。

 「大学病院時代と違って、一人ひとりの患者さんとの関わりが幅広くゆっくり持てる点が楽しい半面、すべての責任が自分にかかってくる重圧も感じます。今はまだ勉強の毎日ですよ」と笑う。

 外来の合間に「検査の時間」を設定し、自ら胃カメラや大腸内視鏡検査を行う。入院や手術が必要と判断した時は、自らが籍を置いた大学病院との太いパイプを利用することもできるが、

それよりは患者の希望や利便性を最大限に優先し、近隣の拠点病院や、患者の居住地から近い基幹病院を探して、丁寧に紹介状を書く。

 かぜや頭痛、腹痛など急性期疾患の診断と治療、そしてさまざまな生活習慣病のコントロールなど、守備範囲は広い。加えて人間ドックによる“早期発見”にも力を入れる。患者の不安を少しでも取り除くための取り組み強化に余念がない。

 「手術に未練はないかと聞かれれば、『まったくない』とは言えません。事実、今でも外科時代の仲間から『手術を手伝いに来ないか』と誘われると、ありがたいな、と思います。

でも、今はプライマリケア医(初期診療医)としての実績を残す時期。今の環境で自分にできる最大限の努力をして、患者さんに還元したいと思います」

 あたたかい笑顔と物腰の柔らかさに人柄が染み出る。何でも気軽に相談できる若き開業医の存在を、特に渋谷近辺のビジネスマンは、頭に入れておいてもらいたい。 (長田昭二)

 ■岡野雄介(おかの・ゆうすけ) 1975年、東京都生まれ。
2002年、福島県立医科大学卒業。東京女子医科大学消化器病センター外科に入局し、肝胆膵外科チームに所属。同大附属病院のほか、関連病院の赤羽中央病院、八王子消化器病院などに勤務後、11年より医療法人社団エヌシー会に移籍し現職。日本外科学会専門医。趣味は自転車。

【日本の名医】頼れる“医療の窓口”に 多忙なサラリーマンの健康をサポート★トルナーレ内科外科院長・松浦裕史さん(40)

埼玉県日高市にある埼玉医科大学国際医療センター。同大教授で、心臓血管外科のトップを務める新浪博士医師は、名実ともに日本を代表する心臓外科医。順天堂大学時代は、天皇陛下の手術をした天野篤医師の下で研鑽(けんさん)を積んだ、国内有数の症例数を誇る心臓外科のスペシャリストだ。

 「子供の頃から手先が器用だったので、“医者になるなら心臓外科”と決めていたんです」

 そう言って笑うが、単に器用なだけでは片付かない、難度の高い手術で数多くの患者の命を救ってきた。

 「心臓の手術なら何でもしますが、好きなのは冠動脈バイパス手術。術者の“器用さ”が最も現れるのがこの手術です」

 患者が自分で見ることのできない、体内での“仕上がりの美しさ”に、強くこだわる。

 人工心肺装置を使わない、つまり心臓を止めずに行う「オフポンプ」と呼ばれる手術を、日本で最も早い時期から実践してきた1人。その卓越した技術を見学しに、国内外から数多くの心臓外科医がやって来る。

 そんな新浪医師が今後力を入れたいと語るのが、心臓移植だ。実は埼玉医大国際医療センターは、国内で9カ所しかない心臓移植認定施設の一つでもある。

 「6年前に完成したこのセンターでは、心臓に関して“ここでできない手術はない”と断言できるだけの高機能を有している。これだけの医療資源を活用しない手はありません」と意欲を見せる。

 近年、循環器内科の技術向上で、外科が担当する症例は総じて難しくなってきている。それでも、赴任時に抱いた「“天野外科”のクオリティーを見せつけてやる」という意気込みは、今も変わらない。

 「生死の境にいた人も、きちんと治せば元気で帰れる。退院時の笑顔を見ると、この仕事はやめられませんよ」

 世界水準の心臓手術が埼玉で行われていることを、まず頭に入れておくべきだろう。

 ■新浪博士(にいなみ・ひろし) 1962年、横浜市生まれ。

87年、群馬大学医学部卒業。91年、東京女子医科大学大学院修了。東京女子医大附属日本心臓血圧研究所に入局し、米ウェインステート大学、豪アルフレッドホスピタル、豪ロイヤルノースショアホスピタルなどに留学。その後、女子医大附属第二病院心臓血管外科助教授、順天堂大学医学部心臓血管外科助教授を経て、2007年より現職。医学博士。趣味はスキューバダイビングと熱帯魚の飼育。

【日本の名医】心臓外科のスペシャリスト 「オフポンプ」を早期に実践★埼玉医科大学 新浪博士教授(51)

埼玉県日高市にある埼玉医科大学国際医療センター。同大教授で、心臓血管外科のトップを務める新浪博士医師は、名実ともに日本を代表する心臓外科医。順天堂大学時代は、天皇陛下の手術をした天野篤医師の下で研鑽(けんさん)を積んだ、国内有数の症例数を誇る心臓外科のスペシャリストだ。

 「子供の頃から手先が器用だったので、“医者になるなら心臓外科”と決めていたんです」

 そう言って笑うが、単に器用なだけでは片付かない、難度の高い手術で数多くの患者の命を救ってきた。

 「心臓の手術なら何でもしますが、好きなのは冠動脈バイパス手術。術者の“器用さ”が最も現れるのがこの手術です」

 患者が自分で見ることのできない、体内での“仕上がりの美しさ”に、強くこだわる。

 人工心肺装置を使わない、つまり心臓を止めずに行う「オフポンプ」と呼ばれる手術を、日本で最も早い時期から実践してきた1人。その卓越した技術を見学しに、国内外から数多くの心臓外科医がやって来る。

 そんな新浪医師が今後力を入れたいと語るのが、心臓移植だ。実は埼玉医大国際医療センターは、国内で9カ所しかない心臓移植認定施設の一つでもある。

 「6年前に完成したこのセンターでは、心臓に関して“ここでできない手術はない”と断言できるだけの高機能を有している。これだけの医療資源を活用しない手はありません」と意欲を見せる。

 近年、循環器内科の技術向上で、外科が担当する症例は総じて難しくなってきている。それでも、赴任時に抱いた「“天野外科”のクオリティーを見せつけてやる」という意気込みは、今も変わらない。

 「生死の境にいた人も、きちんと治せば元気で帰れる。退院時の笑顔を見ると、この仕事はやめられませんよ」

 世界水準の心臓手術が埼玉で行われていることを、まず頭に入れておくべきだろう。

 ■新浪博士(にいなみ・ひろし) 1962年、横浜市生まれ。

87年、群馬大学医学部卒業。91年、東京女子医科大学大学院修了。東京女子医大附属日本心臓血圧研究所に入局し、米ウェインステート大学、豪アルフレッドホスピタル、豪ロイヤルノースショアホスピタルなどに留学。その後、女子医大附属第二病院心臓血管外科助教授、順天堂大学医学部心臓血管外科助教授を経て、2007年より現職。医学博士。趣味はスキューバダイビングと熱帯魚の飼育。

【日本の名医】大阪の糖尿病患者から絶大な支持 “テーラーメードの治療”にこだわり★ふくだ内科クリニック(大阪市淀川区)院長福田正博さん(56)

先週に続き、糖尿病治療の第一人者を紹介する。前回は東京の医師だったが、今回は大阪の糖尿病患者から絶大な支持を得る糖尿病専門医だ。

 新大阪駅から徒歩2分のビジネスビルにある「ふくだ内科クリニック」は、糖尿病治療に専門特化した診療所。院長の福田正博医師は、糖尿病治療の世界で知名度の高い内科医。

 「医療には大きく2つのタイプがある。1つは溺れている人=患者を医療者が救う“ライフセイバー型”で、多くの外科系の診療科がこれにあたる。

一方で、“コーチング型”と呼ばれるタイプがあり、川を泳いでいる人=患者に『この先は流れが急だから気を付けて、もっとキックしよう』などと医療者が励まし指示を出していくタイプ。糖尿病診療はまさにこれで、私の性に合っているんです」

 前回も触れたが、近年は自己注射タイプのインスリンを糖尿病の早期段階から使用することで膵臓(すいぞう)を休ませて、合併症を予防することが可能になってきた。

しかし、患者側にある「インスリンは最後の手段」などの誤解から、難色を示すケースも少なくない。

 「そんな時には、まず患者の話に耳を傾ける。その上で丁寧に説明をすれば、納得の上で治療に入れる。最近は24時間効果が持続し、低血糖に陥るリスクの低いインスリン注射薬も開発され、治療に選択の幅が広がった。

医者側から治療を押し付ける時代ではありませんよ」

 糖尿病に画一化した治療はなじまないという福田医師は、“テーラーメードの治療”にこだわる。

 「病気を見るのではなく、病気の背景にある原因を見なければ、効果的な治療はできません。その人を糖尿病に導いた生活習慣を医師が理解して、それに則した治療を組み立てていく。そこが専門医のウデの見せどころですよ(笑)」

 温厚な笑顔と語り口の中に、ほんの一瞬、専門医としての“自信”を垣間見ることができた。

 ■ふくだ・まさひろ 1956年、大阪市生まれ。82年、滋賀医科大学卒業。
大阪大学第四内科入局。88年から2年間、米ハーバード大学留学。96年から現職。日本糖尿病学会専門医。大阪府内科医会会長。近畿大学医学部非常勤講師。医学博士。趣味はオーディオ、パソコン、世界遺産めぐり。

【日本の名医】糖尿病治療の名医 インスリン早期投与の安全性を発信★邦大学医療センター大森病院(東京都大田区)教授 弘世貴久さん(52)

東邦大学医療センター大森病院の糖尿病・代謝・内分泌科教授を務める弘世貴久医師は、糖尿病治療の世界で全国的な知名度を持つ内科医。最初は大学で研究に没頭していたが、市中病院に移って糖尿病患者のあまりの多さに驚き、その治療にのめり込んでいった。

 当時、血糖をコントロールするためのインスリン投与は、病気がかなり進行してから、入院して徹底した管理下で行うのが一般的だった。しかし、臨床の最前線で弘世医師はそこに疑問を持つ。

 「血糖コントロールは、将来の合併症予防が目的。なのに、当時は合併症が出たり、それが近づいてから治療を始めるのが実情だった。もっと早い段階で血糖コントロールをすべきと考えて、早期での外来インスリン導入の重要性を唱えたんです」

 当初は異端視されたが、日本の糖尿病治療の第一人者である順天堂大学の河盛隆造教授に請われて上京。研究と臨床で積み重ねた理論をまとめ、早期インスリン投与の効果と安全性を世界に向けて発信していく。

 「国内の患者数を考えれば、糖尿病専門医だけを相手にしても仕方がない。多くの開業医にこの治療法を知ってもらい、実践してもらう必要がある」と、医師向けの啓蒙(けいもう)活動に尽力。

結果、早期インスリン投与の普及が飛躍的に進んでいった。

 インスリン投与は患者自身が腹部に打つので、怖がる患者もいる。そんな時、弘世医師は患者の前で自分の腹部に“空打ち”をしてみせる。

 「今の注射針は髪の毛ほどの細さなので痛くない。でも、どんなに口でいうよりもお医者さんが自分の体に打って見せたほうが安心感が違うでしょう」と笑う。

 NHK、朝の人気ドラマだった「梅ちゃん先生」の舞台・大森で、人情に篤い関西弁の先生の診療が始まっている。地域の糖尿病患者には大きな朗報だ。 

 ■弘世貴久(ひろせ・たかひさ) 1960年、神戸市生まれ。
85年、大阪医科大を卒業し、大阪大学第三内科入局。92年から米国立衛生研究所留学。95年より阪大助手、97年、西宮市立中央病院、2004年、順天堂大学医学部代謝内分泌科講師、07年、同准教授を経て、12年より現職。医学博士。趣味は「2人の息子と行く昆虫採集」。

「やぶ医者」は、名医だった!「やぶ医者大賞」を受賞した花戸貴司医師

[ちちんぷいぷい - 毎日放送] 2016年12月26日放送の「Today's VOICE ニュースな人」のコーナーで、「やぶ医者大賞」を受賞した花戸貴司医師が紹介されました。

「やぶ医者大賞」は兵庫県養父市が主催していて、やぶ医者の語源が「養父(やぶ)の名医」との説にちなんで2014年に創設されました。市内外を問わず、過疎地やへき地の医療に尽力した医師を顕彰するもので、今年で3回目となります。

「病気」を診るのではなく「人」を見る

花戸医師は滋賀県東近江市の山間部、三重県との県境に近いところにある永源寺地区で診療されています。この地区は過疎化高齢化が進み、65歳以上が占める割合を表す高齢化率が33.7%と、全国平均の26.7%を上回っています。集落によっては80%以上のところもあるとのことです。

赴任した頃は「診療所の医療レベルを上げたい」との熱い思いをお持ちでしたが、地域の患者さんと接している日々の中で、高度な医療をみんなが望んでいるわけではないことに気がついて、患者さんの声に耳を傾けて地域の人々に寄り添う診療をされています。

今では、地元の薬剤師や介護士の方とともに、行政と医療・福祉関係者との連絡会「チーム永源寺」を結成し、地域の医療を行政に伝えて政策に反映するようにと活動しています。

永源寺地区の10年前の高齢化率が今の全国平均と変わらないことから、「日本の10年先をいっている地域」と考えて、今やっていることが10年後の日本で役立つモデルになればとおっしゃっていました。(ライター:けあるひの)

心臓外科の名医 かつての“3K職場”での経験がいまも生きる

重症の患者や痛みに長年苦しんでいる人を救う外科医。自身の技術を上達させ、患者の負担が少ない低侵襲の手術を実践する名医に、週刊朝日MOOK「『名医』の最新治療」で迫った。その中から、小倉記念病院副院長であり、心臓血管外科主任部長の羽生道弥医師(57)を紹介する。

■どんなに難しい患者でも絶対に諦めない

 ひと口に心臓病と言っても、心筋梗塞、弁膜症、大動脈瘤(りゅう)とさまざまある。心臓病の手術数が全国トップレベルの小倉記念病院(福岡県北九州市)。心臓血管外科主任部長として腕を振るっているのが羽生医師だ。出血の少ない正確な手技は、同じ心臓外科医からも一目置かれている。

 ただ本人は謙虚で少しも偉ぶるところがない。今回の取材を申し込んだときも、「私でいいんですか?」と控えめだった。

「他の著名な心臓外科医と比べて派手さはないし、口下手なので……」

 2017年で医師32年目を迎える。年間の執刀数は約300例、通算では4千例を超え、日本のトップ心臓外科医の一人だ。だが意外にも、大学の医学部生のときは「小児外科」志望だった。

「乳幼児の生命力の強さに惹かれました。大人と違って『どこが痛い』と言えなくても原因を探りあて、治してあげたいと思ったんです」

 ところが大学6回生のとき、研修先の京都大学病院で考えが変わる。小児外科と同じ病棟内に心臓血管外科があり、重症患者にチームワークで挑む先輩たちを見て、「心臓は生命により深く関わる分野。自分も力になりたい」との気持ちが強くなった。

 1986年、医学部を卒業して心臓血管外科医に。病院の手術室で先輩から技術を学び、手術後は病院に泊まり込んで患者の容体を細かくチェックする毎日だった。

「当時の心臓血管外科は“3K職場”でしたよ(笑)。でも泊まり込んで、術後の患者さんの様子を細かく診られたことは大きな経験でした。当時の心臓手術は術後の合併症が多かったのですが、どんな状態が続くと合併症が現れるのか。それを未然に防ぐには、どんな手を打てばよいのか。いろいろ学ぶことができました。命もかなり救いましたよ。経験は今も生かされています」

 続いて移った土谷総合病院(広島市)では成人に加えて、新生児や小児の心臓手術を数多く担当した。ここでも麻酔科医と泊まり込み、手術と術後のケアを繰り返し学んだ。

■日本を代表する3人の医師から学ぶ

 その羽生医師には“3人の恩師”がいるという。はじめの京都大学病院では伴敏彦教授(当時)、土谷総合病院では望月高明医師、小倉記念病院では岡林均医師の指導を受けた。いずれも日本を代表する心臓血管外科医だ。

「3人の先生からは技術や治療方針の立てかたはもちろん、『絶対に諦めない』という姿勢を学びました。他では手術を断られた重症の患者さんも、思いをくみ取り、何とか手術できないかと必死に策を考える。手術中に容体が急変しても、『必ず立て直す』と諦めない。その姿勢と、ここぞというときの『引き出しの中身』を間近で学べたことは大きかったです」

 今働いている小倉記念病院には、九州全域や広島県、遠くは関東からも患者が集まる。16年春、弓部大動脈瘤の患者が来院した。かつて別の病院で手術を受けた際に冠動脈につないだバイパス(内胸動脈)2本が、弓部大動脈瘤に巻き込まれていて、しかも瘤が胸骨に密着しているという深刻な状態。普通に手術をすれば瘤が大破裂することは必至だった。

 しかし羽生医師は絶対に諦めないという姿勢で、大動脈弁狭窄(きょうさく)症の治療に用いる「経カテーテル術(TAVI)」も取り入れ、弓部大動脈を人工血管に置き換える手術を行った。時間はかかったものの無事に成功し、患者は元気さを取り戻した。

 そんな羽生医師の得意な手術の一つが、人工心肺装置を使わずに行う「心拍動下冠動脈バイパス手術(オフポンプ)」だ。狭心症で心臓の冠動脈の血流が悪くなった場合、別の血管を迂回路(バイパス)としてつなぎ、血流を回復させる。

 90年代までは心臓の動きをいったん止め、代わりに人工心肺装置で全身に血液を送りながらのバイパス手術(オンポンプ)が大半だった。しかし患者の負担が大きいこともあり、今では人工心肺装置を使わず、心臓を動かしたまま血管をつなぐオフポンプ手術が主流になっている。

 ただそのぶん、執刀医には高い技術が要求される。冠動脈は直径1.5~2ミリほどで、手術時の心臓は動いたまま。その状況下で、迂回路となる血管を素早くつないでいく。しかも通常は3~4カ所の冠動脈にバイパスをすることが多い。

「手術では出血させないことが重要です。出血すると処置が必要で、時間もかかってしまう。迂回路となる血管をつなぐときは、心臓の拍動に合わせて一発で決める。バイパス手術の基本は『確実に着実に』です」

 同手術は全身麻酔で行われることもあり、患者への負担はカテーテル治療より大きい。ただし1回で数カ所まとめて手術して、問題を解決する。術後、胸痛や息切れなどのつらい症状は消え、多くは見違えるように元気になる。

「7年前に狭心症でカテーテル治療を繰り返していた若い患者さんがいました。3カ月ごとに会社を休んで入院、検査に治療。職場ではかなり肩身が狭かったようです。内科医の勧めもあって、冠動脈バイパス手術をしました。2週間入院しましたが、その後は再発することなく元気に仕事に打ち込まれています。こうした再発率の低さもバイパス手術の大きなメリットです」

■万全の準備をして最高の状態で臨む

 06年に小倉記念病院の心臓血管外科主任部長になってから10年が経つ。もう熟練の域に達していると思われる羽生医師だが、「まだまだです。それに完成したと思ったら医療の進歩はありません」とあくまで探究心を忘れない。連日、重症例の心臓手術に取り組み、24時間365日態勢で緊急患者も受け入れる。

 手術が終わり、翌朝に合併症もなくホッとしていたら、次の患者が来るという繰り返しだ。

「通常の手術では準備万端整えて、最良のコンディションで臨むようにしています。患者さんもいい状態にして、麻酔科医や看護師、臨床工学士のスタッフも最高の実力を発揮する。手術時は一つひとつ確認作業を怠らない。鉄道の運転士が細かく指さしして、安全確認をしながら列車を動かすように、手術でも何百という確認作業があります。それを一つずつクリアしながら進めていく。一方、緊急の患者さんが搬送されてきたときは、王道が通じないことも多い。『どんな方法だったらうまくいくのか?』を即座に考え、決断し、チームで実行していきます。今後も最高の治療を提供していきたいですね」

小倉記念病院 副院長 心臓血管外科主任部長 羽生道弥
1986年、京都大学医学部卒。同大学病院、土谷総合病院を経て、2001年から小倉記念病院。06年に主任部長、13年副院長。
<実績> 合計手術数 約4000例(冠動脈バイパス手術2000例、心臓弁膜症の手術2300例、胸部大動脈瘤の手術600例など。合併手術のため重複あり)

•【日本の名医】高橋由伸も現役時代に治療を受け完全復活!“神の手”を持つ整形外科医とは

重症の患者や痛みに長年苦しんでいる人を救う外科医。自身の技術を上達させ、患者の負担が少ない低侵襲の手術を実践する名医に、週刊朝日MOOK「『名医』の最新治療」で迫った。その中から、出沢明PEDクリニック院長で、帝京大学溝口病院客員教授でもある、出沢明医師(64)を紹介する。

■虫の目と鳥の目で、手術する

「この綿みたいなのが、ヘルニアの原因の髄核です。鉗子でつまんで、取り出していきます」

 2016年10月上旬、東京・二子玉川駅前にある出沢明PEDクリニック。広さ8畳ほどの手術室には、心地よいクラシック音楽がかかっている。この日手術を受けるのは長野県から来た男性(70代)だ。長年患っていた腰椎椎間板ヘルニア(以下ヘルニア)が悪化し、歩行が困難になった。

 ヘルニアとは背骨を形成する腰椎と腰椎の間にある組織(髄核)が飛び出し、神経を圧迫する病気。日本人の約120万人がヘルニアと言われている。出沢医師は自ら開発した特別な内視鏡を使い、手際よく痛みの原因である髄核を取っていく。

「少しだけチクッとしますよ」

 部分麻酔のため患者と会話もできる。この日の手術はわずか1時間で終了した。

「もう大丈夫です。2、3時間もすれば歩けるし、明日には退院できるはずです」

 医師の言葉に、信じられないという表情の男性。ベッドから丁重にお礼を述べた。

 この出沢医師の手術は「PED法(経皮的内視鏡下椎間板ヘルニア摘出術)」と呼ばれる。患者の負担の少ない超低侵襲治療で、2003年に出沢医師が日本で初めて取り入れた。

「ヘルニアの手術方法はいくつかあり、背中側を3~4センチ切って、神経の束を器具でよけながら髄核を取るのが一般的です。また2センチほどの切り口から内視鏡を入れて手術する方法もあります。いずれも全身麻酔下で行われ、1週間~10日ほどの入院が必要です。患者さんからは『もっと早く復帰したい』との声が多くあり、医療機器メーカーにアイデアを出しながらPEDを完成させました」

■手術後2時間で歩くことも可能に

 PED法ではまず患者に部分麻酔をかけ、先端に超小型カメラがついた直径8ミリほどの管を背中に入れる。モニターに映し出される映像で患部の状態を確認しながら、管に鉗子を入れる。鉗子を右手で動かし、神経を圧迫している髄核にたどり着いたら、慎重に取り出していく。

 管の先端からは生理食塩水が出るため、視界不良が起こりにくい。また局所麻酔なので患者と会話ができ、神経症状の有無を確認しながら進められる。

 手術はおおむね1時間~1時間半で終わる。個人差はあるが、術後2~3時間で歩くことができ、翌日には退院できる。日帰り手術も可能で、保険も適用される。ヘルニアで車椅子を利用していた人が、1週間後にはゴルフを再開したというケースも珍しくない。

 読売巨人軍の高橋由伸監督が現役だった09年、ヘルニアに苦しみ、出沢医師のPED手術を受けた。翌年、見事に復活を果たし、打席に立ち続けた。

「サッカーJリーグの選手もみえます。トップアスリートは手術で日常生活ができるようになるだけではだめで、95%以上回復させなければいけない。だから余計に緊張します。術後のリハビリを経て、復帰されたときは感慨深いです」
 PEDは術後の再発率が低いのも大きな特徴だ。ヘルニアは手術後、5~10%は再発すると言われている。椎間板には再生する力がなく、手術をした痕はふさがらない。穴が開いている状態なので、いずれ髄核が再び飛び出してくる。しかしPEDなら、穴は8ミリほどと小さいので、再発率も当然低い。「3%ほど」(出沢医師)だという。

 手術は多いときで1日4件。これまでの手術数は2600例を超えた。

「PEDの超小型カメラはまるで虫の目です。体内の様子が大きくアップで映しだされる。一方、その映像を元に病態全体をイメージし、手術を進めていきます。患者さんを俯瞰(ふかん)している感じなので、こちらは鳥の目といえるでしょう。手術では両方の目を駆使しています。全神経を集中させているので、終わった後はぐったりです(苦笑)」

 従来のヘルニア治療に画期的な進歩をもたらしたPED。難点は高度な技術を要することだ。ミリ単位の手先の動きが要求されるため、できる医師は全国でも約25人と少ない。出沢医師は専門の学会を発足させて勉強会を開くなど、技術の伝達にも力を入れている。

■脊柱管狭窄症も1時間で治す

 その一方、PEDの応用や適応拡大にも余念がない。PEDと同じ内視鏡と特別なドリルを組み合わせ、腰部脊柱管狭窄症の手術も近年は進めている。

 背骨には神経(脊髄)が通る脊柱管というトンネルがあり、骨の圧力や椎間板の突出などで脊柱管が狭くなるのが脊柱管狭窄症だ。手術では圧迫している骨などを削り、狭くなった脊柱管を広げていく。

 出沢医師はPEDで使う内視鏡の管に、1分間で8万回転する細いドリルを入れて骨を削り取っていく方法を編み出した。これは「PEL(経皮的椎弓切除術)」と呼ばれ、世界最小の侵襲手術として注目されている。こちらも傷口は小さく、手術は1時間~1時間半で終わる。患者のほとんどが数時間後には歩くことができるという。

「整形外科の疾患は命に直結するわけではないですが、QOL(生活の質)やADL(日常生活動作)が大きく低下します。旅行やスポーツが趣味だった人が、寝たきりになることも少なくありません。ただし、整形外科の疾患は手術で完治するものがほとんど。負担の少ない手術法で、一人でも多くの人を治し、楽しみを増やしてあげたいです」 

 そんな出沢医師の健康法は水泳だ。もともとはジョギングが趣味でフルマラソンも6回完走しているが、11年に首が痛くなり水泳に切り替えた。

「毎夜、自宅近くのプールで1時間ほど泳いでいます。全身の筋肉がバランスよく鍛えられ、血流も良くなるので体調はずっといいですね。あとはストレッチです。朝起きたときに『波止場のポーズ』をやっています。ふくらはぎがしっかり伸び、腰痛予防にもなります。オススメです」そう笑顔で話す出沢医師。目標は80歳まで整形外科医を続けることだ。

出沢明PEDクリニック院長 帝京大学溝口病院客員教授 出沢明医師 1980年、千葉大学医学部卒。横浜東病院整形外科医長、帝京大学溝口病院整形外科教授、副院長補佐などを経て、2014年にPEDクリニック開業
<実績> 合計手術数 約2600例(椎間板ヘルニア1800例、腰部脊柱管狭窄症800例)

【日本の名医】生活習慣病の初期治療に実績!医師のネットワーク作りに注力★厚生連クリニック院長佐藤秀昭さん(64)

JA東京厚生連が運営する医療機関が東京・立川市にある。JR立川駅南口から徒歩2分。「厚生連クリニック」の院長を務めるのが、今回紹介する佐藤秀昭医師だ。

 山形県酒田市の開業医の次男として生まれた。

 「子供の頃は、よく父のカバン持ちで往診に付いて行っていました。そのせいか、かなり早い段階で『将来は医師』と決めてましたね」と笑う。

 「全身を診る」のと「家族も見る」ことが目的で医師になったので、迷うことなく内科を専攻。循環器疾患や糖尿病など、生活習慣病の初期治療を中心に実績を重ねていく。

 現在は、JAの組合員や地域で契約する企業の職員らを対象とした健診事業を柱に、自身が得意とするプライマリケア(初期診療)に特化した医療を展開する。

 「高血圧にしても糖尿病にしても、早期で症状が出ることはありません。

しかし、早期できちんと対処しておけば、その後に控える重篤な状態を回避することが可能。将来にリスクのある人を確実に洗い出し、必要な医療を提供していくのが私の役目。名医でも何でもないんですよ」

 そう謙遜するが、“最初に診る医師”の技量が、その後に受ける医療の質を大きく左右するのは紛れもない事実だ。

 そんな佐藤医師が、今、最も力を入れているのが、ネットワーク作りだ。

 「ここで病気が見つかった患者さんを、それぞれの分野で最も信頼できる名医に紹介したいので」と、多忙の中を各地で開催される学会に出かけて行き、「これは!」と思う医師に声をかけ、自身のクリニックに招聘したり、

医療連携での関係づくりにつなげていく。結果として「名医が認めた名医」によるネットワークができあがっていく。

 患者の知らないところで、こうした努力を怠らない医師がいることを、医療消費者として知っておくことが重要なのだ。

 ■佐藤秀昭(さとう・ひであき) 1948年山形県酒田市生まれ。
77年杏林大学医学部を卒業後、同大第二内科入局。埼玉社会保険病院、杏林大学高齢医学教室、同総合診療科、国家公務員共済組合連合会立川病院などを経て、2008年より現職。人間ドック健診専門医、日本医師会認定産業医他。医学博士。趣味はスキー。

【日本の名医】「皮膚疾患治療」で豊富な経験と知識 “美”へのこだわりも★虎の門病院皮膚科医師(東京都港区)大原國章さん(64)

命に関わらなくても、深刻な悩みを招く病気は多い。例えば「あざ」。目立つ部位にできた色の濃いあざは、女性でなくても気になるものだ。

 この「あざ」に代表される慢性皮膚疾患治療の世界で知られるのが、東京都港区の虎の門病院皮膚科の大原國章医師。

 「あざの他にも、皮膚のがんのように、内科的治療で効果の期待できない皮膚疾患治療が専門。“病気治療”が目的ですが、仕上がりの美しさを無視することはできません」と大原医師。

 “美”へのこだわりは強い。

 例えば、あざの治療ではレーザー治療が主流だが、これも術者のこだわりで、仕上がりはかなり違ってくるという。

 「ピンポイントでレーザーを照射する作業の繰り返しだが、照射部に隙間ができても、逆に重なり過ぎてもキレイにはならない。根気のいる仕事なんですよ」と苦笑い。

 そんなレーザー治療に、近年動きがあった。新しい局所麻酔薬が臨床導入されたのだ。

 レーザー照射の瞬間、「輪ゴムで弾いたような」痛みを伴う。これを小さくて数十回、広範囲に及ぶあざなら1000回以上も繰り返すので、当然痛みも増大。従来は注射で局部麻酔をすることもあったが、この注射がまた痛い。「注射のための麻酔薬」があるほどだ。

 そこに昨年、リドカイン・プロピトカイン配合薬というクリーム製剤が承認され、安全かつ効率的に治療時の痛みを取り除けるようになった。

 「日本で承認されるまでは、海外から個人輸入するところもあったようですが、品質面での不安は大きい。

そのため当院では、以前からこれと同じクリームを病院の薬剤部で調合していました。今回、国産の薬剤が承認されたことで、この領域の治療技術向上にも弾みがつく」と大原医師。

 40年にわたって日本人の皮膚を診てきた大原医師。豊富な経験と知識が、治療技術の向上をアシストする。その先には、誰もが望む「快適な医療」がある。 (長田昭二)

 ■大原國章(おおはら・くにあき) 1948年、京都市生まれ。
73年、東京大学医学部を卒業し、同大皮膚科に入局。84年まで東大医学部附属病院、その後、虎の門病院に勤務。皮膚科部長・副院長を経て昨年、退職。現在は非常勤医師として同院で週2回診療に当たる。趣味はカメラと美術鑑賞。

【日本の名医】安全性高い肌の再生医療を 患者自身の細胞を培養、注入★RDクリニック大阪院長 野洌義則さん(41)

大阪の中心、地下鉄御堂筋線・心斎橋駅から徒歩2分のビジネスビルにこの春オープンした「RDクリニック大阪」。肌の再生医療に専門特化した医療機関だ。

 ここで行われる治療は、患者自身の肌から細胞を取り出し、増殖・培養したものを患者の皮膚に注入するという内容。自然な形で皮膚を再生し、若返らせる治療法だ。美容整形とは異なり、患者自身の細胞を使うため、安全性の高いアンチエイジングが実現するという。

 院長を務める野洌(やす)義則医師は、最近まで生まれ故郷の滋賀県内で、地域医療の最前線でプライマリケア医として活躍していた異色の医師だ。

 「病気を選べない“何でも屋”のような存在でした」と笑う。だが今、取り組んでいる再生医療は、かけ離れた世界からの転身。きっかけは、自身が口の周囲にヘルペスを発症したことだった。

 「それ以前から皮膚や美容に興味はありましたが、自分が顔に皮膚疾患を経験して、真剣に考えるようになりました。

皮膚のことを勉強するに従い、多くの場合、肌の悩みの背景に臓器の病気やメンタルの問題などが存在することを知り、自分の経験を生かせるのではないかと思うようになったんです」

 まだ歴史が浅い肌の再生医療。だからこそ医学的根拠に基づくガイドラインが必要だと野洌医師は訴える。

 「医学の世界では、10年、20年でスタンダードが変わっていく。この肌の再生医療も、10年後にはアンチエイジングのスタンダードになっている可能性は十分感じます」

 口調は穏やかだが、夢の実現への思いは熱い。肌の再生医療という新しい医療技術を大阪に根付かせるための、野洌医師の挑戦が始まった。 (長田昭二)

 ■野洌義則(やす・よしのり) 1973年、滋賀県生まれ。
97年、自治医科大学卒業。滋賀医科大学第一内科(循環器・呼吸器内科)に入局し、同大附属病院や滋賀県内の公立総合病院に勤務。その後、竜王町国民健康保険診療所に勤務し、地域医療と在宅医療に従事。今月より現職。趣味は将棋観戦と音楽鑑賞。

【日本の名医】「肝臓に内視鏡」普及へ尽力 世界屈指の技術に日本全国から患者★岩手医科大学外科教授 若林剛さん(56)

食道、胃、大腸などの消化器系はもちろん、乳腺や前立腺など、人間の体のあらゆる臓器の手術で腹腔鏡や胸腔鏡といった「内視鏡」が用いられるようになった。

従来のように皮膚を大きく切開することなくできることから低侵襲治療(ダメージの小さい治療)の代表として位置づけられているが、実は肝臓の手術では、この内視鏡手術の普及が遅れていた。

 血管の塊のような臓器である肝臓を、腹腔鏡で手術などできるわけがない-というのが理由だが、その常識を覆し、自ら執刀する手術のほぼすべて、病院としても8割という高いシェアで腹腔鏡下肝切除術を実施しているのが、岩手医大外科教授の若林剛医師だ。

 「世界初の腹腔鏡下肝切除が行われたのが1991年で、私の第一例が95年。以来20年間、技術向上と安全性の確立に没頭してきました」

 そう語る若林医師が、古巣・慶大から現在の岩手医大に移ったのは2005年。これをきっかけに岩手医大は腹腔鏡下肝切除のメッカとして、日本はもちろん全世界の肝臓外科医に知られる存在となった。

 「肝臓は場所的に開腹手術では見えにくい箇所が多く、そんなところに重要血管が走っていたりする。逆に腹腔鏡を使ったほうが安全性は高まる。

しかも、気腹圧といって腹腔内の二酸化炭素濃度を高めることで出血量を劇的に少なくできることも明らかになった。当然、入院期間も短くなるので、この手術を選ばない理由はないのです」

 現在、若林医師らは、肝がんなどの肝切除だけでなく、肝移植でドナーから肝臓を摘出する際にも、患者の希望があれば自由診療となるものの腹腔鏡手術を実施している。

 「私の外科医としての残りの人生を、この術式を日本全国の病院で、当たり前のように受けられるよう普及させることにあてる覚悟はあります」と語る若林医師。

 この術式で世界のトップ3に入る技術を求めて、今日も日本中から盛岡へ患者がやってくる。 (長田昭二)

■若林剛(わかばやし・ごう) 1957年、東京都生まれ。
82年、慶應義塾大学医学部卒業。88年より米・ハーバードメディカルスクール留学。91年に帰国後、川崎市立川崎病院勤務。93年、慶大外科学教室助手。講師を経て2005年、岩手医科大学第一外科教授。06年、学内再編により現職。医学博士。趣味はスキー。

【日本の名医】「切断やむなし」でも温存例多数 “足をトータルで診る”下北沢病院副院長・長崎和仁さん

 前回に続いて「足の血管」の専門家を紹介する。

 東京都世田谷区にある下北沢病院は、全国でも珍しい「足の病気」と「糖尿病」に専門特化した医療施設。ここの副院長を務める長崎和仁医師は、末梢(まっしょう)血管の治療を専門とする外科医だ。

 外科医になった当初は消化器外科で研修し、特に肝臓移植では血管吻合を行っていた。この時、血管吻合を数多く担当する中、徐々に血管という器官の重要性と、医師にとっての刺激性に取りつかれる。以降、閉塞(へいそく)性動脈硬化症など「足の末梢血管」の手術で腕を磨いていく。

 「足の痛みは、血管のトラブルだけでは説明がつかないことも少なくない。血管外科だけでなく、形成外科や整形外科、糖尿病内科などと領域が重なることも多く、“足をトータルで診る施設”の必要性を感じていた時に、この病院の計画が持ち上がった。足を診たい医師の集合体なので、やりがいがあり、専門性の高い医療ができている自負はあります」と胸を張る。

 足の血管の外科治療は、バイパス手術はもちろん、カテーテルを使った血管内治療も外科医が担当する。「足のカテーテル治療」の初期から携わってきた長崎医師にとってこの病院は、その知識と技術をフルに生かせる最高の舞台といえる。

 壊疽(えそ)が進んで他院では「切断やむなし」と診断された患者の足が、長崎医師の治療によって、機能を残して温存できた例は数多い。

 「足の病気を専門に行うわれわれの存在を、患者だけでなく“多くの医師”に知ってもらいたい。それにより、切らなくて済む足を残す可能性を高めることに繋がるはず」

 日本では、足の病気に関するデータが少なく、それがこの分野の医師が増えない一因にもなっている。日本有数の「足の病院」で、長崎医師の手により、貴重なデータが集積されていく。 (長田昭二)

 ■長崎和仁(ながさき・かずひと) 1970年、埼玉県生まれ。96年、慶應義塾大学医学部卒業。同大外科に入局後、東京医療センター、足利赤十字病院、浜松赤十字病院、さいたま市立病院に勤務。その間スタンフォード大学に2年間留学。2015年より現職。趣味は。サッカー観戦(浦和レッズのファン)とスキー。

【日本の名医】足の機能を回復させる血管外科治療 二次救急医療機関として地域に貢献 東京都保健医療公社大久保病院 外科部長・菅野範英さん

新宿・歌舞伎町。西武新宿駅のすぐそばにある公益財団法人東京都保健医療公社大久保病院は、長く「都立大久保病院」として親しまれてきた基幹病院。2012年に現在の名称に生まれ変わった後も、304の病床を持ち、二次救急医療機関として地域医療に貢献している。

 外科部長を務める菅野範英医師の専門は「血管外科」。といっても、冠動脈バイパス手術のような循環器系の血管ではなく、バスキュラーアクセス(人工透析の血管の出入り口)のトラブルや、閉塞(へいそく)性動脈硬化症から生じる足の壊疽(えそ)に対する血管バイパス手術などを得意とする。

 「生活習慣病、特に動脈硬化が進行していると血管が石灰化していることもある。そんなケースでの手術には、やはり経験が生きてきます」と菅野医師。

 心臓血管の手術と違って、足の手術は対象とする血管が長く、心臓の手術とは異なるノウハウが必要となる。

 「壊疽になりかかっていても、あるいはすでに壊疽が始まっていても、手術によって足の機能を維持、回復させることは可能」

 そう自信を見せる菅野医師の元には、近隣の医療機関からの紹介はもちろん、患者自身が噂を聞きつけて受診することも珍しくない。

 消化器外科出身の菅野医師は、大学の医局時代は、がんに浸潤された血管を切ってつなぐ手術で腕を磨いていた。その技術は今も高く評価され、国内有数のがん治療専門病院で行われるがんの手術で、血行再建術のサポートに駆り出されている。

 「大久保病院は、診療科間の壁がない点が最大の売りかも」と笑う菅野医師。医局の、医師の間の「風通しのよさ」は療養環境を高め、患者にとっての大きなメリットに直結する。

 環境と技術に秀でた血管外科治療が、日本最大の歓楽街で繰り広げられているのだ。 (長田昭二)

 ■菅野範英(すがの・のりひで) 1961年、北海道小樽市生まれ。86年、東京医科歯科大学医学部を卒業し、同大第一外科(当時)に入局。同大医学部附属病院、日産厚生会玉川病院、土浦協同病院勤務などを経て、2011年より現職。日本外科学会認定指導医・専門医、日本心臓血管外科学会認定機構修練指導医・専門医、日本脈管学会専門医。医学博士。趣味はウエートトレーニング、水泳。

家族が認知症になったら…考えたことある?

もしも自分の両親、夫の両親が認知症になったら…… と考えたこと、ありますか?みなさんもそう遠くない未来に、誰かを介護・看護する可能性は少なくありません。

■「面倒をみること」の意味 「どんなふうになっても、自分たちで面倒みますか?」と不安げにかたるトピ主さん。自分の家族がもしも認知症になってしまったら、自分は一体どうすればいいのかと悩んでいます。

トピには実際に病気をわずらっている家族がいる人からも意見が寄せられています。 『きれいごといってられなくなるよ。祖母が認知症になったんだけど、誰が誰だかわからなくなるし攻撃的になることもある。

ずっと一緒にいると本当にこっちがまいっちゃう。施設にいれたりヘルパーさんにきてもらうと「見捨てた」「手抜き」だのいう人もいるけど、自分がその立場じゃないからいえるんだろな。

家族が家族じゃなくなるんだよ。おばあちゃんってよんでもあなたどこの子?って……。

両親だったらもっとショックだと思う。』 『義理の父が認知症。預けたくない気持ちはわかるけど、認知症とつきあっていくには上手くデイサービスやショートステイを利用し、場合によっては施設のことも考えないと共倒れになってしまうこともあるとケアマネさんにアドバイスもらった。

大好きな義父だから、施設にはいることになって家族のことを忘れてしまっても、ちょこちょこ会いにいこうと思ってる。』 『私の両祖母、旦那の祖父が認知症。

まわりも自分も大変なのをみてるから、親は子どもに迷惑かけたくないといってるよ。本当に壮絶です。娘のことだって「知らない人がいる!お前誰だ!」ってなる。』

■今からできることってある? 介護や看護の問題なんてまだまだ先のこと、と考えていてはすでに遅いかもしれません。いつなにが起きるかわからない危機感をもって、できることから始めてみましょう。

『できるなら施設にお願いしたほうがいいと思う。認知症の介護なんて大変すぎて家庭まで崩壊しかねないから。』 『実親は施設にいれてと話している(貯金は大丈夫)。義親はお金がないからどうするんだろう?

でも、少子高齢化で施設やホームが足りない地域もあるから、料金が高い施設じゃないとはいれなそう。』 『私もそれが理想だけど、いざそうなったとき、タイミングよくそういう施設にいれてもらえるように、今から施設に寄付金とかしておかなきゃって思ってる。あとお金も貯めておかないと施設も続かないよね。

』 『私は預ける。普段から親とはそういう話してるし、親自身、ホームにはいる為に貯金してるよ。

まだ50代ですが。』 義理や人情を抜きにして、一度現実的に考えることが双方にとって大切かもしれません。大事な家族だからこそ、お互いにとってよい選択をする、意見を伝え合っておく。そうすることで安心できる点もあるはずです。

【日本の名医】安全性高い肌の再生医療を 患者自身の細胞を培養、注入★RDクリニック大阪院長 野洌義則さん(41)

大阪の中心、地下鉄御堂筋線・心斎橋駅から徒歩2分のビジネスビルにこの春オープンした「RDクリニック大阪」。肌の再生医療に専門特化した医療機関だ。

 ここで行われる治療は、患者自身の肌から細胞を取り出し、増殖・培養したものを患者の皮膚に注入するという内容。

自然な形で皮膚を再生し、若返らせる治療法だ。美容整形とは異なり、患者自身の細胞を使うため、安全性の高いアンチエイジングが実現するという。

 院長を務める野洌(やす)義則医師は、最近まで生まれ故郷の滋賀県内で、地域医療の最前線でプライマリケア医として活躍していた異色の医師だ。

 「病気を選べない“何でも屋”のような存在でした」と笑う。だが今、取り組んでいる再生医療は、かけ離れた世界からの転身。きっかけは、自身が口の周囲にヘルペスを発症したことだった。

 「それ以前から皮膚や美容に興味はありましたが、自分が顔に皮膚疾患を経験して、真剣に考えるようになりました。

皮膚のことを勉強するに従い、多くの場合、肌の悩みの背景に臓器の病気やメンタルの問題などが存在することを知り、自分の経験を生かせるのではないかと思うようになったんです」

 まだ歴史が浅い肌の再生医療。だからこそ医学的根拠に基づくガイドラインが必要だと野洌医師は訴える。

 「医学の世界では、10年、20年でスタンダードが変わっていく。この肌の再生医療も、10年後にはアンチエイジングのスタンダードになっている可能性は十分感じます」

 口調は穏やかだが、夢の実現への思いは熱い。肌の再生医療という新しい医療技術を大阪に根付かせるための、野洌医師の挑戦が始まった。 (長田昭二)

 ■野洌義則(やす・よしのり) 1973年、滋賀県生まれ。
97年、自治医科大学卒業。滋賀医科大学第一内科(循環器・呼吸器内科)に入局し、同大附属病院や滋賀県内の公立総合病院に勤務。その後、竜王町国民健康保険診療所に勤務し、地域医療と在宅医療に従事。今月より現職。趣味は将棋観戦と音楽鑑賞。

【日本の病院の実力】虎の門病院脳神経外科 患者への適正治療判断 診療科の垣根越え連携

突然死に繋がる、くも膜下出血では、およそ8割は、血管にコブが生じる脳動脈瘤(りゅう)の破裂が原因といわれる。

 近年、画像診断の発展により、小さな未破裂脳動脈瘤が見つかるケースも増えた。しかし、未破裂脳動脈瘤を持つ人の全てが、くも膜下出血になるわけではない。

治療の可否に加え、治療法にも、細い管のカテーテルによる脳動脈瘤コイル塞栓(そくせん)術か、頭を開いてコブをクリップで止める開頭クリッピング術かなど、選択肢がある。

 そんな脳動脈瘤をはじめとする「血管障害」に対し、脳神経血管内治療部とタッグを組み、成果を上げているのが虎の門病院脳神経外科。脳卒中センターの一翼も担い、神経内科とも連携しながら、脳卒中などの救急救命治療にも力を入れている。

 「救急も、日々の診療も、専門医の総合力を生かせるのが強みです。未破裂脳動脈瘤の治療では、患者さんは無症状のことが多い。

治療によって合併症を起こさないようにするのが、私たちの務め。自分の得意とする治療を患者さんに勧めるのではなく、客観的に見て、どの治療が適正かをチーム医療によって判断できます。その上で、得意分野の力が発揮できるため、スタッフのモチベーションも高い」

 こう話す同科の原貴行部長(44)は、脳神経外科治療のエキスパート。開頭クリッピング術や血管バイパス術、さらに、動脈硬化で首の頚(けい)動脈が狭まった状態を解消する頚動脈内膜剥離(はくり)術も得意としている。

 頚動脈が動脈硬化で狭まると、血栓が生じて脳梗塞に直結するため、無症状の段階での治療は予防効果が高い。ただし、手術だけでなくカテーテルによる治療法もある。手術か、カテーテル治療か、その選択も、チームワークが生かされる。 

 「患者さんの全身状態が、カテーテル治療でのリスクが高いこともあれば、手術のための全身麻酔によるダメージが大きいこともある。だからこそ、チーム力は不可欠。

診療科の垣根を越えた連携によって、患者さんにベストな治療を選択することができるのです」

 一方で、原部長は難症例の脳動脈瘤や脳腫瘍にも立ち向かう。母校の東大研修医時代から、技術に磨きをかけてきた。2010年、虎の門病院に着任してからも、その姿勢に変わりはない。脳神経のダメージを極力低減すべく、

神経の状態をモニタリングしながら行う手術も、ハイレベルな腕を持つ検査技師の協力を得て、さらなる技術向上を実現している。

 「他院で手術が無理といわれた症例も、基本的には断らないのがポリシー。絶対に引きません。前進あるのみ。スタッフのモチベーションが高いので、技術の継承にも力を入れているところです」と原部長。

 チームワークと技術レベルの向上で、難症例の克服にも挑み続けている。 

<データ>2013年実績
・手術総数298件
・開頭腫瘍摘出術63件
・開頭クリッピング術51件
・頚動脈内膜剥離術36件
・病院病床数889床
〔住所〕〒105-8470 東京都港区虎ノ門2の2の2 
(電)03・3588・1111

【日本の名医】海外で医療貢献の道切り開く 異色の小児外科医★NPO法人ジャパンハート代表 吉岡秀人さん(48)

今回は異色の医師を紹介する。NPO法人「ジャパンハート」の代表を務める吉岡秀人医師。専門は小児外科医。

 ジャパンハートとは、ミャンマーやカンボジアなどで医療貢献に携わる医師や看護師を派遣することを目的に、設立された団体。現在は日本国内の医療過疎地や、先の震災の被災地に開設した診療所などにも、医療スタッフを派遣している。

 その団体の代表を務める吉岡医師は、初めから海外での援助活動目的に医師になった。

 「情報のない当時、途上国での援助活動といえば、井戸を掘ることか医療貢献くらいしか思い浮かばなかった。どっちも得意じゃないけれど、井戸を掘るよりは医療のほうがまだ自分にできそうだと思って…」

 そう考え医学部に進学。卒業後は民間病院で小児救急を中心に一通りの診療科を経験。28歳の時に満を持してミャンマーに渡った。

 明らかに医療水準の異なる環境での診療を、日本のそれと比較しても意味がない-。そう感じた吉岡医師は、特に“困った”“つらい”という思いを持つことはなかったという。

 「医療技術の進んだ日本では、治すことは当たり前。いかにダメージを小さく治せるかがテーマですが、ミャンマーの医療は、命が救えるか否か-という究極的な問題。そんな状況に身を置いていると、“日本だったら”とか“あの設備があれば”といったことはどうでもよくなるんです」

 自身が切り開いた海外での医療貢献の道に、多くの医師や看護師が付いてきた。今はそうした仲間たちを、最も必要としているところへ、最も効率的に派遣するマネジメントに軸足を置く。

 日本では外来に出る機会はなくなったが、ミャンマーでは今も毎月手術をしている。

 「そうすることで自分の無力さを再認識できる。この仕事の最大の敵は“おごり”。定期的な自己修正は必要ですよ」

 そう言って笑顔を見せると、多くの子供や患者の待つミャンマー・ヤンゴンへ再び飛び立った。 (長田昭二)

■吉岡秀人(よしおか・ひでと) 1965年大阪府吹田市生まれ。大分大学医学部卒業。大阪、神奈川などの救急病院に勤務後、ミャンマーで医療活動に従事。97年に帰国し、川崎医科大学小児科講師などを経て、2003年、再びミャンマーへ。04年、国際医療ボランティア団体「ジャパンハート」を設立し代表。最新著書に「1歩を踏み出す50のコトバ」(すばる舎リンケージ刊、1365円)。

【日本の名医】前立腺肥大治療は個別性を重視 日帰り手術から切らない投薬まで★松下泌尿器科医院院長 松下全巳さん(60)

兵庫県東部、ちょうど瀬戸内海と日本海の中央に位置する「丹波市」は2004年、6つの町が合併して誕生した新しい市。その中の旧柏原(かいばら)町の市街地にある松下泌尿器科医院は、今年開業20周年を迎えるクリニックだ。

 院長の松下全巳医師は、前立腺がんや前立腺肥大症の手術を得意とする泌尿器科医。開業後もしばらくは後方支援病院の手術室で介助、指導をしていたほか、今も西日本では非常に珍しい「前立腺肥大症の日帰り手術」を実践するなど、全国的な知名度を持っている。

 「前立腺肥大症という病気は、人の顔と同じで十人十色。それだけに個別性を重視した診断と治療の組み立てが重要になり、そこが泌尿器科医としての腕の見せどころでもあるんです」

 手術が得意だからといって、何でも切ればいいというものではない。症状とデータを精査し、投薬治療でコントロールが可能と判断すれば、早い段階で長期的な治療方針を示すことで、治療に対する患者の積極性を高めるという。

 「近年、この領域ではいい薬も増えています。多くの場合α-1ブロッカーという尿道の緊張を和らげる薬を第一選択として使い、その効果を見ながらさまざまな薬を組み合わせていく。

そのためには、患者の訴えに耳を傾ける必要があり、決してパターン化された医療では対応できません」

 最新の情報を吸収するため、忙しい診療の合間を縫って学会には欠かさず出席する。医家向けの講演会の講師も数多く務め、そうした場面で生まれるネットワークを、医療連携という形で患者に還元していく。

 「まだまだ医療の質の底上げをしないと」

 先進的な地域医療をめざす松下医師の挑戦は続く。 

 ■松下全巳(まつした・まさみ) 1953年、神戸市生まれ。81年、神戸大学医学部卒業。同大泌尿器科教室に入局し、関西労災病院、西脇市立病院、兵庫県立柏原病院などに勤務。94年、松下泌尿器科医院を開業し理事長兼院長。趣味は旅行と写真。

【日本の名医】「白い奥歯」で爽やか笑顔を セラミックより安価な歯冠を臨床導入★大谷歯科クリニック院長 大谷一紀さん(40)

大学時代はアメリカンフットボールの選手。大学病院で研鑽(けんさん)を積んだのち、現在、上野(下谷)と青山のクリニックを行き来して、歯科診療の最前線で活躍する。

4代続いた歯科医師家系の長男として、最先端の歯科医療の研究と臨床応用に余念がない。

 「忙しいサラリーマンの患者さんも多いので、少ない回数でより良い治療を実践したかった。歯科医がほんの少し工夫するだけで、それは可能ですから」

 そう言って笑う口元からのぞく歯は、当然のことながら真っ白。

 大谷一紀院長が現在、取り組んでいるのが、新しい形態の「奥歯のかぶせ物」の臨床導入だ。

 従来、奥歯の虫歯治療で“かぶせ物”の必要が生じた時は、健康保険が適用されるのは金属のクラウン、つまり銀歯か金歯。白いセラミックの歯を入れるとなると、保険外で10万円程度の出費を覚悟しなければならなかった。

 「その中間に位置するかぶせ物が欲しかったんです」と語る大谷院長。

自身が開発に携わって出来上がったのが「ダイレクトクラウン」と呼ばれるセラミックとレジン(樹脂)のハイブリッド素材を使った“白いクラウン”。柔らかい素材をその場で形成し、LEDライトを当てることで硬化させる。従来の補綴(ほてつ)と違って、一度の治療で完結するのが最大のメリットだ。

 「4年前に研修で渡米した時に初めて見ました。価格はセラミックの5分の1程度なので、患者さんの経済的負担は小さくて済む。自由診療の敷居を低くする技術だと思います」

 価格は医療機関ごとに多少の差はあるが、大谷医師のクリニックでは、1本2万8000円。これで笑った時に口元に見える銀歯の輝きを気にしなくて済むなら、決して高くはない。

 「銀歯からダイレクトクラウンへの交換を希望する人は多い。50代男性で、上下左右8本をまとめてこれに代えた人もいます」(大谷院長)

 人前でさわやかな笑顔を見せられるか否かで、ビジネスの成果は大きく左右される。大谷院長の挑戦は、日本のビジネスマンにとって人ごとではないのだ。 

 ■大谷一紀(おおたに・かずのり) 1973年、東京都生まれ。
97年、日本大学歯学部卒業。同大歯科補綴学第III講座入局。2000年より大谷歯科クリニックに勤務。11年より理事長。現在、東京都港区の青山ホワイテリアデンタルクリニック副院長を兼務。日本歯科補綴学会専門医、エステティック・エクスプローラーズ会長、日本顎咬合学会認定医。歯学博士。趣味は渓流釣りと自転車。
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