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81歳男性「胃ろう」「寝たきり」「要介護5」から奇跡の復活

76歳で重度の肺炎から呼吸不全に陥り、人工呼吸器と胃ろうをつけ、寝たきりの要介護5だった男性が、4年を経て、要支援2にまで奇跡の復活を遂げた──。

 その人は、横浜市鶴見区に住む松本孝彦さん(81)。2015年に松本さんを取材し、2016年に出版された『日本で老いて死ぬということ──2025年、老人「医療・介護」崩壊で何が起こるか』(朝日新聞出版)でも松本さんを紹介した朝日新聞の佐藤陽記者が、改めて、松本さんのその後と、奇跡の復活の要因について迫った。

■2012年、重度の肺炎から意識不明に

 松本さんは、大手食品メーカーを退職後、68歳で独立。中小企業向けのコンサルティングを行う会社を立ち上げた。首都圏だけでなく、浜松市の会社も支援し、忙しい日々を送っていた。

 2012年2月ごろから、時々せきが止まらなくなることがあった。5月下旬、浜松市の中小企業支援に出張していたときのことだ。せきが止まらず、熱も下がらない。呼吸も苦しい。

「これは、もう限界だ」。たまらず近所の外科クリニックに飛び込んだ。レントゲンの写真を見た医師は「これは重症の肺炎です。すぐ入院してください」と言った。松本さんは、その後のアポイントをすべてキャンセル。自宅のある横浜市鶴見区まで車を運転し、同区の病院にそのまま入院した。

 ところが、入院から約2週間後に意識を失い、済生会横浜市東部病院の救命救急センターに搬送された。重症肺炎から、「急性呼吸促迫症候群」(ARDS)という最重症の呼吸不全に陥っていた。すぐに集中治療室(ICU)で、気管挿管した。気管切開をし、人工呼吸器もつけた。

 突然のことに妻洋子さん(75)は動揺していた。「気管切開をする」という同意文書には、長女典子さん(48)がサインした。救急医からは「肺が機能していない」という現在の状況と、今後の治療方針について説明を受けた。

 治療のかいあって、松本さんは数週間後に意識を取り戻し、7月上旬に一般病棟に移った。

 急性期治療は一段落したため、7月下旬、系列の病院に転院した。安定的に栄養補給するため、胃に穴を開けチューブで栄養を入れる「胃ろう」をつけた。

■入院中を支えた「退院したらやりたいことノート」

 松本さんは言語聴覚士(ST)らの支援で、口から食べられるようにする「嚥下(えんげ)訓練」など、リハビリに懸命に励んだ。典子さんによると、嚥下訓練のときに一度誤嚥(ごえん)性肺炎になったが、STらは嚥下訓練に再チャレンジさせてくれたという。

 このころの気持ちを松本さんは、こう振り返る。「これだけやってもらって、俺がやらないわけにいかない」

 入院中、松本さんがひそかにやっていたことがある。それは「自宅に帰ったら、やること」を箇条書きにすることだ。行きたいところ、会いたい人、食べたい物……。例えば「ムール貝のおいしい、レストラン◯◯に行きたい」と具体的に書いた。まず「家に帰る」という強い意志を持つことが大事だという。

 退院が近づくと、洋子さんと典子さん、次女和子さん(44)は、主治医と、今後のケア方針などについて話し合った。「もしかしたら、もう口から普通に食べるのは難しいかもしれない」。家族3人は、そう考えていた。

■胃ろうの後、再び口から食べられるようになった要因

 松本さんは同年11月に無事退院、在宅で鶴見区内の訪問看護ステーションの訪問を受け始めた。ケアマネジャー兼訪問看護師の栗原美穂子さん(51)らが関わった。

 退院当初は、ベッドにほぼ寝たきりの状態で、要介護5。食事は胃ろうからとった。栗原さんは、口から食べるための支援に力を入れようと、区内でネットワークを結ぶ鶴見大学歯学部助教の飯田良平さん(44)に、のみ込み機能の評価を依頼した。大学病院で内視鏡検査をした結果、のみ込み機能は比較的よかったため、「今の『刻み食』から、段階的に通常食に近づけてもよい」という評価だった。

 訪問看護師は、飯田さんの助言を受けながら、誤嚥しにくいような食べ方を指導した。口の周りの筋肉などを鍛える「嚥下体操」も続けた。そして徐々に口から通常食を食べられるようになり、2013年10月に胃ろうを抜いた。

 最も身近にいた妻洋子さんの献身ぶりはすごかった。刻み食の調理法を学び、胃ろうの管理を毎日した。毎朝、一緒に嚥下体操もした。それらを2人の娘たちが支えた。

 もちろん栗原さんや訪問看護師、家族の力だけではない。松本さん自身の力も大きかった。体調の自己管理は徹底していた。退院直後から毎日、現在に至るまで「バイタルチェック表」をつけている。体温、体重、せきやたんの量、嚥下体操をしたか、歩いた歩数、3食のメニュー、来客者や活動内容……。これまで約4年半分の記録が、分厚いバインダーにとじてある。

「最近、熱が高いから、体調に気をつけよう」「もっと歩かないと」。松本さんは、これを見ることで、自身の体調管理をしてきた。

 栗原さんは「ここまで回復した例は、かなり珍しい。松本さんの負けず嫌いの性格が幸いしたのだと思います」と、「復活」の要因を挙げる。歩くときも頑張りすぎるので、栗原さんは「もっと休憩をとるように」と助言したほどだという。

 一方、飯田さんの分析はこうだ――。急性期に胃ろう造設がされた後、口から食べるためのリハビリが引き継がれず、食べられる可能性のある人が、長期間胃ろうをしたままお楽しみ程度のプリンしか食べていない、というケースが多い。在宅になっても、病院での嚥下機能評価に基づきリハビリすれば、松本さんのように回復するケースは少なくない。

 松本さんの日々の努力と周囲のサポートで、要介護度も年々改善していった。退院直後は要介護5だったのが、2013年8月には要介護2に、2016年2月には要介護1、同年8月には要支援2と、階段を昇るように回復していった。

■お世話になった人への恩返しで、介護関連の資格を六つ取得

 私は、要介護2だった2015年2月に、松本さんを取材させてもらった。このときは、取材中に何度もせき込み、たんを吐き、苦しそうだった。ところが、今年5月に取材したときは、2時間半ほどの取材で、一度もせき込むことはなかった。しかも、当日気温30度近い暑さの中、自宅から数百メートルあるバス停まで迎えに来てくれた。その回復ぶりに、私自身驚いた。

 典子さんも、しみじみと語る。「父が様々な方の支援を得て、命を努力で守り、奇跡が起きたように思えてなりません。今ではことあるごとに家族で集い、シャンパンでにぎやかに会食をしています。ただありがたく幸せなひとときです」

 松本さんの「回復のストーリー」は、まだ終わらない。「これまでお世話になった方々への恩返しのつもり」で、約4年前から勉強を続け、介護関連の資格を六つとった。介護職員初任者研修修了や認知症ライフパートナー、同行援護従業者などだ。

 現在、鶴見区の地域ケアプラザ(地域包括支援センター)のボランティアをしている。駅員を対象に「認知症の客にどう接したらいいか」といったテーマで寸劇を演じるなどしているのだ。「高齢化が進み、介護人材も不足している。少しでも貢献できれば」と松本さん。講演活動もしており、自身の「復活体験」を話している。

 救急医として関わった済生会横浜市東部病院救命救急センター長の山崎元靖医師(46)は、感慨深げにこう話す。「(『日本で老いて死ぬということ』出版記念の)立食パーティーで、何でも好きなものをとりわけ、食べられている松本さんの姿を見ると、救命救急センターで人工呼吸器を装着されていた姿とは隔世の感があります。そして、さらに今は松本さん自身が介護を学ばれ、社会に貢献しようとしている。救命救急医は、どうしても患者さんと一点でしかふれ合うことができず、回復した後のお姿を拝見することは少ないので、本当にうれしい」

「よたよたになっても、天命が来るまでは、人生を全うしたい。せっかく助けてもらった命なんですから」。松本さんは、80歳を過ぎた今も、前へ前へ、歩き続けている。

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