ノーと言わない天才外科医 「どこかに突破口がある」外科医で、米コロンビア大教授の加藤友朗氏
【転機 話しましょう】
外科医で、米コロンビア大教授の加藤友朗さん(49)は、他の病院で治療不可能と診断された末期症状の患者の命を数多く救ってきました。「どこかに突破口があるのではないか」。あきらめず、粘り強く考えることで、新たな道が開けることも多いといいます。(平沢裕子)
■「ノー」と言わない
主に肝臓や小腸の移植医として、子供から大人まで1千件以上の移植手術をこなしてきた。米国では「切除不可能とされたがんでも取る外科医」としても知られ、末期がん患者の手術も手がける。
「どんな症例の患者さんがきても最初から『ノー』と言わない。一から洗い直し、何かできないか考える。もちろん成功しない例もたくさんあるが、ノーと言わずにやってきたことが、今の仕事につながっている」
ノーと言わない姿勢を身につけたのは、医師になって2年目の研修医時代。敗血症で多臓器不全寸前の患者を救うため、徹底的にカルテを洗い直し、その患者に使用していない抗生物質があることに気付いた体験がきっかけだ。
著書『「NO」から始めない生き方』(集英社)で、このときの体験を「結果として患者さんを救えたことは『枠をはみ出して考える』『あきらめずに粘る』という医師としての僕の基本姿勢をつくったと思う」とつづっている。
海外で働くことは子供のころからのあこがれだった。夢を実現するため国内での研修を終え、渡米。米マイアミ大学で研修医として勤務するが、いざ臨床に携わると、患者や指導医の話す英語がほとんど理解できず「要注意研修医」のレッテルを貼られる。
言葉ができないために本来の研修医以外の仕事も押しつけられ、指導医の1人からはことあるごとにいびられた。ただ、患者と看護師からの評判はよかった。
「他の医師が電話ですませるようなことでも、僕は必ず患者さんの元へ行って対応した。電話だと言っていることが分からなかったためだが、それが逆に患者さんの信頼につながった。
僕をクビにする話が持ち上がっていたが、看護師が『言葉はだめだけどまじめに仕事をする』とかばってくれ、なんとかクビがつながった」
状況が変わったのは、“天敵”ともいえる指導医が執刀医を務める肝臓移植手術がきっかけだ。外科医として5年目で、本来なら執刀医の次の第1助手となるべき立場だったが、第3助手として手術に入った。
第2助手は2年目の研修医。手術の成否は助手に左右されることも多いが、第2助手は経験不足もあり患者の出血にうまく対応できなかった。
「このままでは患者さんの命にかかわる」。見かねて代わると状況が好転、手術は無事成功した。この日を境に指導医の態度はがらりと変わった。
これ以降、すべてのことがうまくいくようになる。ミーティングで治療方針を検討する際も、以前は「何を言ってるんだ」と軽くあしらわれたのが、話を聞いてもらえるようになった。
■世界初の手術
決定的な転機となったのは今から5年前。この病院で、世界初の難手術に成功したことだ。患者は63歳の米国人女性で、内臓の筋肉にがんの一種の「平滑筋肉腫」を発症。大動脈を巻き込む形で大きながんがあり、他の病院から手術不可能と診断されていた。
通常は開いた腹部からがんだけを取り出すが、この方法ではがんを取ると残された臓器に血液がいかなくなり、臓器が壊死する可能性があった。
そこで、胃や肝臓、小腸など6臓器を体外に取り出し、がんを切除した後に体内に戻すことにした。過去に手掛けた多臓器移植を応用した手法だが、それまで世界中でだれもやったことがなかった。
手術後、CNNやニューヨーク・タイムズなど全米の主要メディアが「日本人天才ドクター、世紀の大手術に成功」などと報じ、全米から問い合わせが殺到した。
「移植技術の応用と聞くと『なあんだ』と思うかもしれないが、当時はだれも考えなかった。医者の世界はこの症状ならこの手当てと治療のエビデンス(根拠)をたたき込まれ、発想が小さくなりがちだ。
研修医時代の体験で常識を疑うクセがついていたのと、あきらめずに解決を探る姿勢が身についていたことで、新しい分野を開拓することができた」
8年前から南米、ベネズエラの移植医療も手伝っている。移植手術を受けさえすれば、途端に健康になれる人は世界中にたくさんいる。世界をまたにかけた忙しい日はまだまだ続きそうだ。
■加藤友朗(かとう・ともあき) コロンビア大学医学部外科学教授。
昭和38年、東京都生まれ。62年に東京大学薬学部卒業後、大阪大学医学部学士入学。平成3年卒業。臨床研修終了後に渡米、マイアミ大学移植外科勤務。米国で脳死ドナーからの肝臓および小腸の移植手術を多数手がける。12~14年に阪大付属病院勤務、生体肝移植にも携わる。著書に『移植病棟24時』(集英社)など。
--大学は最初、薬学部ですね
「中高生のころ、生物の授業でDNAを解明したワトソンとクリックの話を聞いて分子生物学に興味をもちました。
子供のころから医者になりたいと漠然と思っていたものの、当時は分子生物学の研究者の方に魅力を感じて、それなら東大の薬学部がいいと薦められて。医学部の受験は大変という思いもありました。
でも、大学で実験を始めたら、自分が目指していたものとは違うと気づいた。結局、卒業後に学士入学制度のあった阪大医学部を受験し直しました」
--日本で研修医2年目に米国の医師資格試験に合格します。試験は難しくなかったですか
「内容は日本の医師国家試験と変わらないが、問題は英語で答えられるかどうか。僕はたまたま運転免許を失効して教習所通いをしなければならなくなり、病院の医局に寝泊まりしていました。夜間はすることがなく、試験勉強ができた。免許の失効がなければ勉強しなかっただろうから、試験に合格しなかったと思う。人間万事塞翁が馬です」
外科医で、米コロンビア大教授の加藤友朗さん(49)は、他の病院で治療不可能と診断された末期症状の患者の命を数多く救ってきました。「どこかに突破口があるのではないか」。あきらめず、粘り強く考えることで、新たな道が開けることも多いといいます。(平沢裕子)
■「ノー」と言わない
主に肝臓や小腸の移植医として、子供から大人まで1千件以上の移植手術をこなしてきた。米国では「切除不可能とされたがんでも取る外科医」としても知られ、末期がん患者の手術も手がける。
「どんな症例の患者さんがきても最初から『ノー』と言わない。一から洗い直し、何かできないか考える。もちろん成功しない例もたくさんあるが、ノーと言わずにやってきたことが、今の仕事につながっている」
ノーと言わない姿勢を身につけたのは、医師になって2年目の研修医時代。敗血症で多臓器不全寸前の患者を救うため、徹底的にカルテを洗い直し、その患者に使用していない抗生物質があることに気付いた体験がきっかけだ。
著書『「NO」から始めない生き方』(集英社)で、このときの体験を「結果として患者さんを救えたことは『枠をはみ出して考える』『あきらめずに粘る』という医師としての僕の基本姿勢をつくったと思う」とつづっている。
海外で働くことは子供のころからのあこがれだった。夢を実現するため国内での研修を終え、渡米。米マイアミ大学で研修医として勤務するが、いざ臨床に携わると、患者や指導医の話す英語がほとんど理解できず「要注意研修医」のレッテルを貼られる。
言葉ができないために本来の研修医以外の仕事も押しつけられ、指導医の1人からはことあるごとにいびられた。ただ、患者と看護師からの評判はよかった。
「他の医師が電話ですませるようなことでも、僕は必ず患者さんの元へ行って対応した。電話だと言っていることが分からなかったためだが、それが逆に患者さんの信頼につながった。
僕をクビにする話が持ち上がっていたが、看護師が『言葉はだめだけどまじめに仕事をする』とかばってくれ、なんとかクビがつながった」
状況が変わったのは、“天敵”ともいえる指導医が執刀医を務める肝臓移植手術がきっかけだ。外科医として5年目で、本来なら執刀医の次の第1助手となるべき立場だったが、第3助手として手術に入った。
第2助手は2年目の研修医。手術の成否は助手に左右されることも多いが、第2助手は経験不足もあり患者の出血にうまく対応できなかった。
「このままでは患者さんの命にかかわる」。見かねて代わると状況が好転、手術は無事成功した。この日を境に指導医の態度はがらりと変わった。
これ以降、すべてのことがうまくいくようになる。ミーティングで治療方針を検討する際も、以前は「何を言ってるんだ」と軽くあしらわれたのが、話を聞いてもらえるようになった。
■世界初の手術
決定的な転機となったのは今から5年前。この病院で、世界初の難手術に成功したことだ。患者は63歳の米国人女性で、内臓の筋肉にがんの一種の「平滑筋肉腫」を発症。大動脈を巻き込む形で大きながんがあり、他の病院から手術不可能と診断されていた。
通常は開いた腹部からがんだけを取り出すが、この方法ではがんを取ると残された臓器に血液がいかなくなり、臓器が壊死する可能性があった。
そこで、胃や肝臓、小腸など6臓器を体外に取り出し、がんを切除した後に体内に戻すことにした。過去に手掛けた多臓器移植を応用した手法だが、それまで世界中でだれもやったことがなかった。
手術後、CNNやニューヨーク・タイムズなど全米の主要メディアが「日本人天才ドクター、世紀の大手術に成功」などと報じ、全米から問い合わせが殺到した。
「移植技術の応用と聞くと『なあんだ』と思うかもしれないが、当時はだれも考えなかった。医者の世界はこの症状ならこの手当てと治療のエビデンス(根拠)をたたき込まれ、発想が小さくなりがちだ。
研修医時代の体験で常識を疑うクセがついていたのと、あきらめずに解決を探る姿勢が身についていたことで、新しい分野を開拓することができた」
8年前から南米、ベネズエラの移植医療も手伝っている。移植手術を受けさえすれば、途端に健康になれる人は世界中にたくさんいる。世界をまたにかけた忙しい日はまだまだ続きそうだ。
■加藤友朗(かとう・ともあき) コロンビア大学医学部外科学教授。
昭和38年、東京都生まれ。62年に東京大学薬学部卒業後、大阪大学医学部学士入学。平成3年卒業。臨床研修終了後に渡米、マイアミ大学移植外科勤務。米国で脳死ドナーからの肝臓および小腸の移植手術を多数手がける。12~14年に阪大付属病院勤務、生体肝移植にも携わる。著書に『移植病棟24時』(集英社)など。
--大学は最初、薬学部ですね
「中高生のころ、生物の授業でDNAを解明したワトソンとクリックの話を聞いて分子生物学に興味をもちました。
子供のころから医者になりたいと漠然と思っていたものの、当時は分子生物学の研究者の方に魅力を感じて、それなら東大の薬学部がいいと薦められて。医学部の受験は大変という思いもありました。
でも、大学で実験を始めたら、自分が目指していたものとは違うと気づいた。結局、卒業後に学士入学制度のあった阪大医学部を受験し直しました」
--日本で研修医2年目に米国の医師資格試験に合格します。試験は難しくなかったですか
「内容は日本の医師国家試験と変わらないが、問題は英語で答えられるかどうか。僕はたまたま運転免許を失効して教習所通いをしなければならなくなり、病院の医局に寝泊まりしていました。夜間はすることがなく、試験勉強ができた。免許の失効がなければ勉強しなかっただろうから、試験に合格しなかったと思う。人間万事塞翁が馬です」
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