「孤独死」は怖くない 「老後破産」も気にならなくなる幸せな生き方とは?
この数年、「老後破産」とか「下流老人」ということがメディアで取り上げられるようになりましたが、わたしは常々その取り上げられ方に違和感を覚えます。より正確に言えば、「老後破産しないためには何歳までに何千万の貯蓄が要る」というような論じ方に違和感を覚えます。
「なぜ、今の生活レベルを維持することを前提にして、貯蓄に励めというのだろう? なぜ、収入が減ったなりのつつましい暮らしの中での満足を得るよう気持ちを切り替えよう、とは言わないだろう?」という違和感です。
これまで2回の連載で死に方について書きました。最後に死ぬまでの生き方についても書いておきます。ここでのキーワードは、前回にも出てきた「シンプル・ライフ」に加えて「足るを知る」です。
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「あれ」「これ」はほんとうに必要なものなのか?
今の60代あるいはそれ以上の世代は、高度成長前の貧しかった時代を実体験しているはずですし、あの時代、貧しければ貧しいなりに、生活の中でささやかな喜びや幸せを見つけていたはずなのに、何をそんなに恐れなければならないのでしょう? 老後の収入が今より減るとして、それは子どもの頃に返るだけのことではないでしょうか、と腹をくくればずっと気楽に生きられるのに……。この種の議論を目にすると、わたしはいつもそう思います。
一歩身を引いて、落ち着いて考えてみませんか?
「あれがほしい」、「これがほしい」と思っている「あれ」や「これ」は、ほんとうに必要なものなのでしょうか? 「あれ」がなくても、「これ」がなくても人は生きていけるのではないでしょうか?
「あれがほしい」、「これがほしい」と思う欲求は、本当の自分の自然な欲求ではなくて、マーケティングによって操られ、吹き込まれた偽りの欲望ではないのでしょうか?
マーケティングの手練手管に操られ、「あれも欲しい、これも欲しい」という欲望に身を任せ、毎月何十万もの生活費が要ると信じ込んだあげくに、老後の生活資金が足りないと不安におびえるのは、冷静に振り返ると滑稽なことではないでしょうか。人はもっとシンプルに生きていけるのです。
これはわたしのオリジナルな意見でも何でもありません。2000年以上も前から、エピクロスやブッダや老子、荘子といった人たちが語ってきたことです。
残されたさほど長くない年月を「好きなように生きる」知恵とは?
「禍(わざわい)の最たるは足るを知らざるなり」……。最大の不幸は「これでいい」と満足できないこと。逆から言えば、「足るを知る」、「これでいい」と満足できることが幸せの基本なのです。
そんなシンプル・ライフにあっても、日々の暮らしのいろいろな場面で、ささやかな喜びは感じられます。たとえば、あかね色に染まる夕焼け空を眺めるとき、家のそばの路地で野良猫と遊ぶとき、道路の舗装のすきまから「雑草」と十把一絡げにされる草が名も知れない可憐な花を咲かせているのに気付くとき、喫茶店やファミレスの窓から桜の花が咲いて、やがては散り、若葉が芽生え濃緑に移りゆくさまを眺めているとき、内容の深い本に出合ったとき、部屋でお茶を飲みながら聴き慣れた音楽を聴いているときなど……。人生の幸せはこんなささやかなものの積み重ねかもしれない、「足るを知る」とはこういう心境かもしれない。こんなふうに思えるのも年を取ったからこそであるなら、老いるのも悪くはありません。
「足るを知る」とは、何もかもじっと我慢する生き方ではありません。むしろ逆に、人生に残されたさほど長くない年月を「好きなように生きる」ための知恵でもあります。
たとえば、事業の発展のため、収入を増やすために、好きでもない人とにこやかに付き合い、無理して人脈を広げる必要はないのです。付き合って楽しい人とだけ付き合えばいい。
スキルアップのため、出世のため、知名度を上げるために、好きでもない仕事に打ち込む必要もないのです。心からやりがいのある仕事だけすればいいのです。
社会の反応を気にして、世間の空気を読んで、言いたいことも言わずに我慢する必要もありません。正しいと思うことは正しいと、間違っていると思うことは間違っていると、心おきなく発言していいのです。
こんなふうに好きなように生きて、そのために収入が減ったなら、減った収入の中の「足るを知る」工夫をすればいいのです。まして、孤独死を意識するほどの年齢になれば、未来への投資のために現在を犠牲にする必要はないのです。
あるいはまた、孤独死を意識するほどの年齢になってまで、健康のために好きなことを我慢する必要もありません。
人生の楽しみの中には、健康に良くないものもたくさんあります。タバコ、酒、美食などがその代表でしょうか。しかし、今さら健康に気を配る必要はないでしょう。好きなことをして寿命が1年くらい縮むか、好きなことを我慢して寿命が1年くらい伸びるか、どちらを選んでもいいのです。ましてや孤独死予備軍である一人暮らしの身であれば、「そんなこと、体に毒よ」とお節介なことを言う家族もいないのですから。
* * * * *
3回にわたり孤独死について、そして老後の一人暮らしについて語りました。いかがでしょう? 孤独死も少しばかりは良いものだと分かっていただけたでしょうか?……いや、人が死ぬ話だから「良い」とは言えませんね。それでも孤独死もけっして悪くはない、と思えたのではないかと思います。
(心療内科医師・松田ゆたか)
「なぜ、今の生活レベルを維持することを前提にして、貯蓄に励めというのだろう? なぜ、収入が減ったなりのつつましい暮らしの中での満足を得るよう気持ちを切り替えよう、とは言わないだろう?」という違和感です。
これまで2回の連載で死に方について書きました。最後に死ぬまでの生き方についても書いておきます。ここでのキーワードは、前回にも出てきた「シンプル・ライフ」に加えて「足るを知る」です。
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「あれ」「これ」はほんとうに必要なものなのか?
今の60代あるいはそれ以上の世代は、高度成長前の貧しかった時代を実体験しているはずですし、あの時代、貧しければ貧しいなりに、生活の中でささやかな喜びや幸せを見つけていたはずなのに、何をそんなに恐れなければならないのでしょう? 老後の収入が今より減るとして、それは子どもの頃に返るだけのことではないでしょうか、と腹をくくればずっと気楽に生きられるのに……。この種の議論を目にすると、わたしはいつもそう思います。
一歩身を引いて、落ち着いて考えてみませんか?
「あれがほしい」、「これがほしい」と思っている「あれ」や「これ」は、ほんとうに必要なものなのでしょうか? 「あれ」がなくても、「これ」がなくても人は生きていけるのではないでしょうか?
「あれがほしい」、「これがほしい」と思う欲求は、本当の自分の自然な欲求ではなくて、マーケティングによって操られ、吹き込まれた偽りの欲望ではないのでしょうか?
マーケティングの手練手管に操られ、「あれも欲しい、これも欲しい」という欲望に身を任せ、毎月何十万もの生活費が要ると信じ込んだあげくに、老後の生活資金が足りないと不安におびえるのは、冷静に振り返ると滑稽なことではないでしょうか。人はもっとシンプルに生きていけるのです。
これはわたしのオリジナルな意見でも何でもありません。2000年以上も前から、エピクロスやブッダや老子、荘子といった人たちが語ってきたことです。
残されたさほど長くない年月を「好きなように生きる」知恵とは?
「禍(わざわい)の最たるは足るを知らざるなり」……。最大の不幸は「これでいい」と満足できないこと。逆から言えば、「足るを知る」、「これでいい」と満足できることが幸せの基本なのです。
そんなシンプル・ライフにあっても、日々の暮らしのいろいろな場面で、ささやかな喜びは感じられます。たとえば、あかね色に染まる夕焼け空を眺めるとき、家のそばの路地で野良猫と遊ぶとき、道路の舗装のすきまから「雑草」と十把一絡げにされる草が名も知れない可憐な花を咲かせているのに気付くとき、喫茶店やファミレスの窓から桜の花が咲いて、やがては散り、若葉が芽生え濃緑に移りゆくさまを眺めているとき、内容の深い本に出合ったとき、部屋でお茶を飲みながら聴き慣れた音楽を聴いているときなど……。人生の幸せはこんなささやかなものの積み重ねかもしれない、「足るを知る」とはこういう心境かもしれない。こんなふうに思えるのも年を取ったからこそであるなら、老いるのも悪くはありません。
「足るを知る」とは、何もかもじっと我慢する生き方ではありません。むしろ逆に、人生に残されたさほど長くない年月を「好きなように生きる」ための知恵でもあります。
たとえば、事業の発展のため、収入を増やすために、好きでもない人とにこやかに付き合い、無理して人脈を広げる必要はないのです。付き合って楽しい人とだけ付き合えばいい。
スキルアップのため、出世のため、知名度を上げるために、好きでもない仕事に打ち込む必要もないのです。心からやりがいのある仕事だけすればいいのです。
社会の反応を気にして、世間の空気を読んで、言いたいことも言わずに我慢する必要もありません。正しいと思うことは正しいと、間違っていると思うことは間違っていると、心おきなく発言していいのです。
こんなふうに好きなように生きて、そのために収入が減ったなら、減った収入の中の「足るを知る」工夫をすればいいのです。まして、孤独死を意識するほどの年齢になれば、未来への投資のために現在を犠牲にする必要はないのです。
あるいはまた、孤独死を意識するほどの年齢になってまで、健康のために好きなことを我慢する必要もありません。
人生の楽しみの中には、健康に良くないものもたくさんあります。タバコ、酒、美食などがその代表でしょうか。しかし、今さら健康に気を配る必要はないでしょう。好きなことをして寿命が1年くらい縮むか、好きなことを我慢して寿命が1年くらい伸びるか、どちらを選んでもいいのです。ましてや孤独死予備軍である一人暮らしの身であれば、「そんなこと、体に毒よ」とお節介なことを言う家族もいないのですから。
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3回にわたり孤独死について、そして老後の一人暮らしについて語りました。いかがでしょう? 孤独死も少しばかりは良いものだと分かっていただけたでしょうか?……いや、人が死ぬ話だから「良い」とは言えませんね。それでも孤独死もけっして悪くはない、と思えたのではないかと思います。
(心療内科医師・松田ゆたか)