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エイズ治療の最前線 「死の病」との戦いはどう進化したか



子作りまで可能になった「エイズ」治療の最前線――菊地正憲(上)

 世界中に掲げられたレッドリボン。12月1日、世界エイズデー恒例の光景である。昨年、2017年はエイズ治療薬が世に出て30年。医療は急速な進化を遂げ、「死の病」は、子作りも出来るまでにコントロール可能な病となった。ジャーナリスト・菊地正憲氏による、治療最前線。

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. 10年間の国会議員生活で、質問は200回超、政府に出した質問主意書は、2017年だけでも17件。

 かつて“死の影”を背負っていたその青年は、いま壮年の域に差し掛かり、国会議員として旺盛に活動している。その背中に“暗さ”はまったく感じられない。

「20年以上前は、複数の薬を1日5回も飲んでいました。また、吐き気や下痢、腎臓結石といった副作用にかなり悩まされていましたね。歩くことですら一苦労でした」 

 と振り返るのは、川田龍平・参議院議員(41)。

 川田氏は幼いころに血友病の治療のために使用した非加熱血液製剤によりヒト免疫不全ウイルス(HIV)に感染した。薬害エイズ訴訟で被害者救済のシンボルとなったのは、広く知られている。

「しかし、今では薬が飛躍的に進歩して、1日わずか1回で済みます。副作用もなくなり、逆に体調が良すぎる時などは、出張などで飲み忘れてしまいそうになるぐらいです。実は、妻との間に子供を持とうと一時は不妊治療もしていました。以前では考えられなかったことですよ」

 今は残存するHIVの増加を抑えるというより、その数を懸命に減らしている状態という。血液中の免疫細胞の数は普通の人と変わらないレベルだ。

 もう1人、別の患者の“実感”を聞いてみよう。

 HIV感染者(陽性者)たちで作るNPO法人「日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラス」。

 代表を務める高久陽介さん(41)は言う。

「10年前は副作用がほぼ毎日襲ってきて、仕事も手に付かないほどでしたが、今は信じられないほど生活が楽になりました」

 同性愛者の高久さんは2001年1月、都内の保健所での検査で感染が見つかった。当時のパートナーからは、事前に感染者であることが告げられていた。もっとも、「自分が(感染者に)なるという心配はあまりしていなかった」と言うが。

「長く生きられるか、勤めていた会社の人に理解してもらえるか、治療費はどれぐらいか……。いざ感染者になってみると、不安を感じるようになりました」

 服薬を始めて間もなく、吐き気や下痢のほか眩暈、発疹、さらには不眠といった副作用が出た。出勤も辛くなってきたため、「迷惑をかけてはいけない」と、直属の上司に感染を明かした。

「幸い、上司は理解してくれて、体調が良くない時に遅い時間の出社を認めるなどの配慮をしてくれました。でも、特別扱いされているという負い目もあり、同僚の視線が気になりました」

 ところが、そんな生活も、12年に新薬に変えてから一変した。1日2回、計3錠の服薬内容は変わらないものの、副作用がなくなり、免疫細胞の数も正常に戻った。

 今は退社し、「ジャンププラス」の活動に専念する。啓発活動や会報の発行、陽性者からの相談などに忙しい日々を送る。

「HIV陽性者のひとりとして、これからは穏やかに、健康に長生きするのが目標。同年代のほかの人と全く同じなのです」

 と言う。

「エイズパニック」

 かつてエイズは「死に至る病」の象徴だった。

 この病は、HIVに感染することから始まる。すると、血液中の免疫細胞「CD4陽性リンパ球」の数が、ウイルスの攻撃により減少し、免疫力が低下していく。その結果、感染症やがんを発症した人を「エイズ(後天性免疫不全症候群)患者」、感染しているものの未発症の人を「HIV感染者(陽性者)」と呼ぶ。発症すると、カポジ肉腫やカンジダ症、ニューモシスチス肺炎といったさまざまな病気に罹患しやすくなる。HIVに感染後、治療しなければ、数年から10年程度の潜伏期間を経た後、確実にエイズを発症し、その後2~3年で死に至る。

 この病が世の中に知られるようになったのは、1980年代前半。81年に、米国で同性愛者の男性がエイズ患者として初めて症例報告された。日本では85年、最初のエイズ患者が見つかり、87年には神戸市内で初の女性患者が確認された。マスコミもこぞって報道し、「エイズパニック」と呼ばれる社会現象にまでなった。

 しかし、それから30年経った今、冒頭のように、エイズ治療は驚くほど様変わりしている。

 その進歩は、「科学の発展」と「治療法の変化」による。

 当初、治療法がまったくなかったこの難病に対して、ウイルスを抑制する抗HIV薬が発売されたのは、87年のこと。エイズ研究の草分けのひとりである満屋裕明氏(現・国立国際医療研究センター研究所所長)が「アジドチミジン」という薬に抗HIV作用があることを発見したのが始まりだ。これにより、患者の余命は延びた。

 しかし、問題もあった。
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平均寿命70歳

 日本のエイズ治療の中核施設である国立国際医療研究センター病院の潟永(がたなが)博之医師は、次のように解説する。

「初期の薬剤開発は、とにかくウイルスの増殖を抑制することに集中していました。HIVは突然変異しやすいため、薬に耐性を持つことがある。簡単に耐性ウイルスが出現しないよう、タイプの違う複数の薬を同時に服用する必要がありました」

「多剤併用療法」という治療法である。その結果、1日に茶碗1杯分と言われるほど、何十錠もの薬を飲む必要があった。それだけ負担が重ければ、「飲み忘れ」や「さぼり」が生まれてくる。すると、薬が効かない耐性ウイルスが出現してくる……。

「これが非常に厄介で、一度現れてしまうと完全な薬効が得られず、本人のウイルス量が抑えられないばかりか、感染者がさらに増えることにもなりかねない。薬はできるだけ飲みやすくした方がよいのです」

 メーカーは必死の開発を続けた。そして、必要な成分を複数配合し、効き目の長い合剤の開発に成功。30年弱をかけて、13年、最少で1日1回1錠の服用で済むようにしたのだ。

「生涯にわたって毎日、必ず服薬してHIVの増殖を抑制することが最重要。製薬メーカーが錠数を減らして飲みやすいものを開発したのです。1つの錠剤に複数の薬が入った合剤になっています。いったん発症しても、適切な服薬治療によって免疫機能が戻る人も多いのです」

 現在の基本の処方は、主力のキードラッグ1つを選び、さらに補助的な2つの薬を選ぶという、3つの薬の組み合わせとなっている。

 薬剤開発の進歩は、患者の負担を軽減した。かつての薬剤に見られたような重篤な副作用も少なくなった。

 これらによって、薬を飲んでさえいれば、エイズを発症させないことが可能になった。今では20歳のHIV感染者の平均余命は、40~50年ほどまで延びた。つまり、HIVに感染しても、きちんと治療すれば、発症しないまま平均して60~70歳までは生きられるようになったのである。

 ちなみに、現在、最も耐性ウイルスが出現しにくいと言われているのは、同じく満屋氏の開発した「ダルナビル」と、日本の製薬メーカーが関わった「ドルテグラビル」の2つの薬とか。日本の研究は、まさに世界の最先端をいっているのである。

「国内で患者が相次いで確認されはじめて大騒動になったころから考えれば、隔世の感がありますね」

 と潟永医師は続ける。

「私が20年ほど前にエイズの診療をしていた病院には、眼科がありませんでした。そこで担当していた患者さんが網膜剥離を起こしたのですが、付近の病院で眼の手術をしてもらおうとしたら、どこも診療拒否なのです。仕方がないので、伝(つて)を頼って遠くの病院にその状態の悪い患者さんを連れて行きました。その病院で、他の患者さんの手術が終わった夕方にようやく手術をしてもらった、ということもありました」

 偏見も今以上に強かった時代、患者発見から日が浅い未知のウイルスに対し、医師でさえどう対処してよいか分からなかった。そこから考えれば、治療の進歩は目を見張るべきものがある。

 ***

(下)へつづく

菊地正憲(きくち・まさのり)
1965年北海道生まれ。國學院大学文学部卒業。北海道新聞記者を経て2003年にフリージャーナリストに。徹底した現場取材で政治・経済から歴史、社会現象まで幅広いジャンルの記事を手がける。著書に『速記者たちの国会秘録』など。
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