エイズは「糖尿病より楽」――子作りも可能になった治療の最前線
子作りまで可能になった「エイズ」治療の最前線――菊地正憲(下)
かつて「死に至る病」の象徴だったエイズだが、現在、20歳のHIV感染者の平均余命は40~50年ほどまで延びている。その背景にあるのは「科学の発展」と「治療法の変化」。ジャーナリストの菊地正憲氏が、エイズ治療の最前線に迫った。
「HIV感染症は今や医学的には管理可能な慢性疾患になった」
と明言するのは、年間約50人の新規感染者・患者を診察する横浜市立市民病院の立川夏夫医師。
「定期的にインシュリンを打たないといけない糖尿病患者に比べて、エイズを発症していないHIV感染者は闘病がずっと楽です。糖尿病は進行するとカロリーコントロールを毎日やらないといけない。HIV感染者は1日1錠飲めば通常の生活が送れるのです」
90年代前半には、エイズを発症した患者に対して、あまり長い余命が望めなかった。そこで、「貯金があるなら、人生の記念に旅行にでも行ったらどうか」と勧めていたのが通例という。しかし、普通の人とほぼ同じ余命が望めるようになった今は、「年金に入っているか」、「仕事は辞めないように」などと助言するようになった、と話す立川医師。
そして、薬でウイルス量を大幅に減らし、他者に感染しないようにできることから、今では、夫、妻のどちらかが感染者であっても、子供を持つことも可能になったという。
薬を飲んでいれば天寿を全うできるまでに至ったため、研究者は更なる高みを目指している。
薬である限り、飲み忘れの心配は常にある。患者は皆、ピルケースを携帯し、時計などのアラームを利用して備えているが、例えば、急な出張で手元に薬がないという状況もあり得るのだ。
注射方式への転換、医療費は
そこで、次のステップとして、より簡便な注射方式への転換が模索されているという。立川医師が続ける。
「注射自体の痛さや注射量の問題がなければ、服薬から替わる可能性があります。開発は順調に進んでおり、近く1カ月に1回の注射で済む方法が、欧米で認可されるのではないでしょうか」
ひとつだけ心配なのは、これだけ進歩的な治療が生まれれば、それに伴って、医療費も高額になるのではないかということ。しかし、HIV感染症の診療を行う東京都新宿区の「しらかば診療所」の井戸田一朗院長は説明する。
「医療費助成制度などを利用すれば、概ね年間2万~4万円で済みます。今は中・低所得者であっても、安心して治療できる体制になっています」
エイズを発症すれば、障害者認定を得られるケースがほとんどだ。そうなれば、医療費助成を受けられる。また、高額療養費制度も活用できるのだ。
根治は可能か
いかがだろうか。
順調そのものに見えるエイズ治療。今後の課題は何だろうか。ウイルスの増殖を抑えることに成功している今、注目は、予防の可能性、そして完治薬の開発である。
日本のエイズ治療の中核施設である国立国際医療研究センター病院の潟永(がたなが)博之医師は、この2点について次のように説明する。
「ワクチンはまだ完成には至っていませんが、海外では抗HIV薬を予防薬として内服し、効果が認められつつあります。いずれ、ワクチンは出来ると期待しています。一方で、根治については、まだ目途が立っていません」
一方、立川医師は、将来的に感染後の治癒を目指す最新治療として、HDAC阻害剤という薬がいま注目されていると説明した。
「ウイルスの遺伝子は、体内のリンパ球に入り込むとしばらくは眠っているのですが、いずれは絶対に起きる。この時に抗HIV薬が効きやすいのです。HDAC阻害剤は、この眠っているウイルスを起こして、殺すという薬です。優秀な叩く薬はあるのに、起こす薬はなかったので、画期的なアプローチです」
.
啓発の必要性
現在、世界のHIV感染者数は3670万人で、新規感染者数は年間180万人。国内の累計感染者・患者(発症者)数は2万7000人以上とされ、ここ10年間は毎年1500人前後の新規感染者・患者が報告されている。性的接触により感染する例がほとんどで、累積の感染者・患者のおよそ9割は男性。特に男性の同性愛者に多いといわれる。
先の井戸田院長によると、国連合同エイズ計画(UNAIDS)は、〈2020年の時点で、世界中のHIV陽性者の90%が検査を受けてHIVに感染していることを知り、うち90%がHIV治療を受け、さらにそのうちの90%が治療の効果で体内のウイルス量が十分に抑制されている状態〉を目指しているという。
達成されれば、2030年までに、エイズが「公衆衛生上の問題ではなくなる」水準にまで達するという。
日本は現在のところそれぞれ85・6%、82・8%、99・1%と推測される。検査や治療開始の点ではやや目標を下回っており、その数値の底上げが課題だ。
立川医師は、
「若い人にももっと関心をもってほしい」
と強調した。
「最近、私のところには20代ぐらいの若い感染者の来院が目立っています。あまりエイズの知識が伝わっていないとも感じるのです。マスコミの報道も以前と比べれば、ずいぶん減りました。とにかく少しでも気になることがあれば、検査してほしい。保健所では検査を無料で受け付けていて、匿名でも受けられる。通常約2週間後には確定結果が出ます。検査キットを通販で購入し、自分で検体を採取して返送する方法もあります」
もっとも、
「課題は他科の医療機関との連携。口腔疾患やがんなど、HIV感染に関連した病気も多いのですが、なお診療に抵抗を抱く医師も少なくないのです。感染者の側も、そうした医療機関には行きにくくなる。医療機関として感染を理解して受け入れて、各々の得意分野で医療を提供してもらえればと願っています」(井戸田院長)
薬の進歩に比べれば、まだまだ意識の変化は遅れているのが現状か。
医療問題を軸に議員活動を展開する川田龍平・参議院議員(41)氏は、エイズ問題についてのより一層の啓発の必要性も訴えた。
「社会には偏見や差別がまだ残っており、苦しむ感染者も多い。特に余命が延びた分、高齢の感染者が、介護などを他の人と同様にきちんと受けられるかといった問題も生じてきています。感染をこれ以上、増やしてはいけないのです」
これも医学の進歩ゆえに生じる課題だろう。
「死の病」だった時代から30年。エイズ治療は新たな局面を迎えているのである。
菊地正憲(きくち・まさのり)
1965年北海道生まれ。國學院大学文学部卒業。北海道新聞記者を経て2003年にフリージャーナリストに。徹底した現場取材で政治・経済から歴史、社会現象まで幅広いジャンルの記事を手がける。著書に『速記者たちの国会秘録』など。
かつて「死に至る病」の象徴だったエイズだが、現在、20歳のHIV感染者の平均余命は40~50年ほどまで延びている。その背景にあるのは「科学の発展」と「治療法の変化」。ジャーナリストの菊地正憲氏が、エイズ治療の最前線に迫った。
「HIV感染症は今や医学的には管理可能な慢性疾患になった」
と明言するのは、年間約50人の新規感染者・患者を診察する横浜市立市民病院の立川夏夫医師。
「定期的にインシュリンを打たないといけない糖尿病患者に比べて、エイズを発症していないHIV感染者は闘病がずっと楽です。糖尿病は進行するとカロリーコントロールを毎日やらないといけない。HIV感染者は1日1錠飲めば通常の生活が送れるのです」
90年代前半には、エイズを発症した患者に対して、あまり長い余命が望めなかった。そこで、「貯金があるなら、人生の記念に旅行にでも行ったらどうか」と勧めていたのが通例という。しかし、普通の人とほぼ同じ余命が望めるようになった今は、「年金に入っているか」、「仕事は辞めないように」などと助言するようになった、と話す立川医師。
そして、薬でウイルス量を大幅に減らし、他者に感染しないようにできることから、今では、夫、妻のどちらかが感染者であっても、子供を持つことも可能になったという。
薬を飲んでいれば天寿を全うできるまでに至ったため、研究者は更なる高みを目指している。
薬である限り、飲み忘れの心配は常にある。患者は皆、ピルケースを携帯し、時計などのアラームを利用して備えているが、例えば、急な出張で手元に薬がないという状況もあり得るのだ。
注射方式への転換、医療費は
そこで、次のステップとして、より簡便な注射方式への転換が模索されているという。立川医師が続ける。
「注射自体の痛さや注射量の問題がなければ、服薬から替わる可能性があります。開発は順調に進んでおり、近く1カ月に1回の注射で済む方法が、欧米で認可されるのではないでしょうか」
ひとつだけ心配なのは、これだけ進歩的な治療が生まれれば、それに伴って、医療費も高額になるのではないかということ。しかし、HIV感染症の診療を行う東京都新宿区の「しらかば診療所」の井戸田一朗院長は説明する。
「医療費助成制度などを利用すれば、概ね年間2万~4万円で済みます。今は中・低所得者であっても、安心して治療できる体制になっています」
エイズを発症すれば、障害者認定を得られるケースがほとんどだ。そうなれば、医療費助成を受けられる。また、高額療養費制度も活用できるのだ。
根治は可能か
いかがだろうか。
順調そのものに見えるエイズ治療。今後の課題は何だろうか。ウイルスの増殖を抑えることに成功している今、注目は、予防の可能性、そして完治薬の開発である。
日本のエイズ治療の中核施設である国立国際医療研究センター病院の潟永(がたなが)博之医師は、この2点について次のように説明する。
「ワクチンはまだ完成には至っていませんが、海外では抗HIV薬を予防薬として内服し、効果が認められつつあります。いずれ、ワクチンは出来ると期待しています。一方で、根治については、まだ目途が立っていません」
一方、立川医師は、将来的に感染後の治癒を目指す最新治療として、HDAC阻害剤という薬がいま注目されていると説明した。
「ウイルスの遺伝子は、体内のリンパ球に入り込むとしばらくは眠っているのですが、いずれは絶対に起きる。この時に抗HIV薬が効きやすいのです。HDAC阻害剤は、この眠っているウイルスを起こして、殺すという薬です。優秀な叩く薬はあるのに、起こす薬はなかったので、画期的なアプローチです」
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啓発の必要性
現在、世界のHIV感染者数は3670万人で、新規感染者数は年間180万人。国内の累計感染者・患者(発症者)数は2万7000人以上とされ、ここ10年間は毎年1500人前後の新規感染者・患者が報告されている。性的接触により感染する例がほとんどで、累積の感染者・患者のおよそ9割は男性。特に男性の同性愛者に多いといわれる。
先の井戸田院長によると、国連合同エイズ計画(UNAIDS)は、〈2020年の時点で、世界中のHIV陽性者の90%が検査を受けてHIVに感染していることを知り、うち90%がHIV治療を受け、さらにそのうちの90%が治療の効果で体内のウイルス量が十分に抑制されている状態〉を目指しているという。
達成されれば、2030年までに、エイズが「公衆衛生上の問題ではなくなる」水準にまで達するという。
日本は現在のところそれぞれ85・6%、82・8%、99・1%と推測される。検査や治療開始の点ではやや目標を下回っており、その数値の底上げが課題だ。
立川医師は、
「若い人にももっと関心をもってほしい」
と強調した。
「最近、私のところには20代ぐらいの若い感染者の来院が目立っています。あまりエイズの知識が伝わっていないとも感じるのです。マスコミの報道も以前と比べれば、ずいぶん減りました。とにかく少しでも気になることがあれば、検査してほしい。保健所では検査を無料で受け付けていて、匿名でも受けられる。通常約2週間後には確定結果が出ます。検査キットを通販で購入し、自分で検体を採取して返送する方法もあります」
もっとも、
「課題は他科の医療機関との連携。口腔疾患やがんなど、HIV感染に関連した病気も多いのですが、なお診療に抵抗を抱く医師も少なくないのです。感染者の側も、そうした医療機関には行きにくくなる。医療機関として感染を理解して受け入れて、各々の得意分野で医療を提供してもらえればと願っています」(井戸田院長)
薬の進歩に比べれば、まだまだ意識の変化は遅れているのが現状か。
医療問題を軸に議員活動を展開する川田龍平・参議院議員(41)氏は、エイズ問題についてのより一層の啓発の必要性も訴えた。
「社会には偏見や差別がまだ残っており、苦しむ感染者も多い。特に余命が延びた分、高齢の感染者が、介護などを他の人と同様にきちんと受けられるかといった問題も生じてきています。感染をこれ以上、増やしてはいけないのです」
これも医学の進歩ゆえに生じる課題だろう。
「死の病」だった時代から30年。エイズ治療は新たな局面を迎えているのである。
菊地正憲(きくち・まさのり)
1965年北海道生まれ。國學院大学文学部卒業。北海道新聞記者を経て2003年にフリージャーナリストに。徹底した現場取材で政治・経済から歴史、社会現象まで幅広いジャンルの記事を手がける。著書に『速記者たちの国会秘録』など。