花粉症はかつて「憧れの病」だった!?『花粉症と人類』著者が解説
多くの日本人が花粉症に苦しみ始めた今年2月末、『花粉症と人類』(岩波新書)という書籍が発売された。杉をはじめとする花粉は多くの日本人から憎まれているが、大英帝国ではかつて「貴族病」などと呼ばれ、憧れの存在でもあったという。
そんな人類とは長い付き合いの花粉症の歴史と今後の未来を、著者である東京農業大学教授の小塩海平氏に聞いた。(清談社 沼澤典史)
花粉症の歴史は紀元前
アッシリア人までさかのぼる
身震いする冬の終わりが見え、すがすがしい春の陽気を感じる頃、にわかに耐え難い目のかゆみと、息もできないほどの鼻づまりに悩まされる人が続出する。もはや日本人の国民病ともいえる花粉症だ。
東京都の花粉症患者実態調査報告書によると花粉症の推定有病率は48.8%(2016年)。若年層(15~29歳)にいたっては61.6%(2016年)にも及ぶ。
東京農業大学の小塩氏は、自身も花粉症を患いながら花粉に関する研究を行っている。ただ、当初は「憎きスギ花粉を全滅させることを志し、復讐心に燃えて研究に取り組み始めた」のだが、研究を進めていくうちに「やがて花粉の魅力に取りつかれてしまった」のだという。そんな小塩氏が花粉症という視点で人類史をまとめたのが本書だ。
「花粉症の歴史は少なくとも紀元前までさかのぼると考えられます。アッシリア人がナツメヤシの授粉作業を行っている記録があり、ナツメヤシの花粉は花粉症を引き起こすことがわかっています。そのことから間違いなく授粉作業者のなかには花粉症患者がいたのではないかと推測されます」
とはいえ、文献ではっきりと花粉症を確認できるのは中世以降のことだ。
「アルコールの発見や硫酸の製造を行ったペルシャの医師ラーゼスは、バラ風邪(バラ花粉症)、つまりバラによる季節性アレルギー鼻炎について初めて論じました。中世では枢機卿や医者など多くのバラ花粉症とみられる症例が記録されています。
ただ、この頃は花粉ではなく香りによって引き起こされると思われていました。ちなみに、バラ風邪は当時奇病とみなされていましたが、忌むべき存在ではなく、詩に歌われるほど情緒的なものでした」
日本人には憧れだった
欧米の花粉症
次に花粉症が知られるようになったのは1800年代。当時、「夏カタル」と呼ばれる干し草による花粉症(のちに「干し草熱」という呼び名が広まる)の報告が増えていた。
「『干し草熱』は階級の高い身分に症例が多かったことからイギリスでは『貴族病』とも言われ、ある種のステータスでした。花粉が原因であることを発見したイギリスの医師ブラックレイは、教養階級の人々が長年にわたる職業訓練や書物による勉学に励むようになり、神経をすり減らしたことによって花粉に感作しやすくなったと述べています。他には、衛生環境の向上と肉や乳製品など免疫に関するタンパク質量の増加が関係していると私は思いますね」
ちなみにブラックレイの研究に大きく興味を引かれたのは『種の起源』で知られるダーウィンだ。彼はブラックレイに手紙を書くなど、花粉症の研究を高く評価している。
時を同じくして、アメリカではブタクサ花粉症が台頭してくる。草木に覆われておらず土がむきだしになっている裸地を好むブタクサは、もともとは洪水や火災の跡地などの限られた場所で生息していたが、フロンティア開発による裸地の増加、また交通網の発達により瞬く間に繁殖。それとともに多くの人が花粉症を患っていったのである。
「アメリカでは花粉を避けるため、富裕層による『花粉症リゾート』が形成されました。集まった富裕層たちは花粉症に選ばれ、リゾートを満喫している自分自身をブルジョワと認定し、自己陶酔に浸っていました。イギリスの『貴族病』と同様に花粉症であることは特権階級にとってステータスでした。
ちなみに、花粉症リゾートには作家アーネスト・ヘミングウェイも父に連れられ何度も訪れており、母親に勘当されるなど、のちの作品に影響を与える出来事もそこで起きています」
このように世界の列強国では、花粉症はエリート層が発症するものとされてきた。そのせいか、昭和初期の日本では「日本人は花粉症になれるか」という研究をした人もいた。イギリスの貴族やアメリカの特権階級への憧れを背景に、「『日本人も花粉症になる特別な民族である』というナショナリズムにも利用されていた」(小塩氏)のである。
林業研究者が少ない
日本の構造的問題
日本で花粉症患者が出現したのは1961年のこと。患者はブタクサ花粉症患者で、3年後にはスギ花粉症患者の存在が報告されている。その後の患者数は増加の一途をたどる。
日本の花粉症患者が増加した原因は、戦後の植林政策で多く杉が植えられたこと、そしてその杉が活用されず放置されていること、衛生環境や食生活の向上したことなど多岐にわたる。
「1984年にはプロ野球の田淵幸一選手が花粉症のために引退を表明。1993年には植林政策のために花粉症になったとして、静岡市の弁護士などが国を訴えたスギ花粉症裁判が行われました。こうしてスギ花粉症は日本人に広く知られていくようになりました。厚生省(現厚労省)や林野庁が対策に動き始めたのもこの頃です」
紀元前からの長い花粉症の歴史において、日本は新興国であるが、近年は日本以外でも花粉症に悩む国は増加しているという。
「インドネシアでは観光客用に整備されたゴルフ場が多くありますが、その際に植えられたバミューダグラス(ギョウギシバ)の花粉症患者が増えています。さらに、中東では砂漠緑化に使用するプロソピスによる花粉症患者も多いです。海外から持ち込まれた植物や同じ植物が密集しすぎている環境の増加、またファストフードなどによる食生活の変化も花粉症の発症に影響すると言われています」
各国で花粉症の対策は行われているが、効果的なものはいまだにない。日本もその例に漏れず、小塩氏を含めて研究者たちが試行錯誤を繰り返している。
「まず林業従事者が激減しているので、杉を切りたくても切れません。無花粉杉に植え替える作業も進められていますが、成長するまでに長いスパンがかかり、花粉ができないので苗を増やすのも簡単ではないのです。私が開発した農薬で雄花だけを枯らす散布実験も、浜松で行われていますが、まだまだ改良が必要です。
また、花粉を根絶できたとしても、環境の変化で新たな問題が起こりかねません。したがって、花粉症の症状を軽減しながら、花粉と共存していく方法も考えるべきでしょう」
さらに小塩氏は花粉症対策への国の本気度に疑問を呈す。
「そもそも日本には林業分野の研究者が少ないのです。博士号を取得して研究職に就くには論文数が重要ですが、樹木の成長は長い時間かかるので、一晩で大量増殖するようなウイルス分野などと比べて成果を上げにくいのが実情です。研究者を育てるならば画一的な評価制度ではなく、国が意図的に人材を育てないといけません。これは花粉症分野だけの問題ではなく、自然環境を守ることにもつながるのです」
いずれにせよ、人類は2000年以上前から我々と同じく花粉症の苦しみを味わい続けてきた。その歴史に思いをはせれば、憎き花粉ではあるが、少しは愛おしく感じられる、かもしれない。
そんな人類とは長い付き合いの花粉症の歴史と今後の未来を、著者である東京農業大学教授の小塩海平氏に聞いた。(清談社 沼澤典史)
花粉症の歴史は紀元前
アッシリア人までさかのぼる
身震いする冬の終わりが見え、すがすがしい春の陽気を感じる頃、にわかに耐え難い目のかゆみと、息もできないほどの鼻づまりに悩まされる人が続出する。もはや日本人の国民病ともいえる花粉症だ。
東京都の花粉症患者実態調査報告書によると花粉症の推定有病率は48.8%(2016年)。若年層(15~29歳)にいたっては61.6%(2016年)にも及ぶ。
東京農業大学の小塩氏は、自身も花粉症を患いながら花粉に関する研究を行っている。ただ、当初は「憎きスギ花粉を全滅させることを志し、復讐心に燃えて研究に取り組み始めた」のだが、研究を進めていくうちに「やがて花粉の魅力に取りつかれてしまった」のだという。そんな小塩氏が花粉症という視点で人類史をまとめたのが本書だ。
「花粉症の歴史は少なくとも紀元前までさかのぼると考えられます。アッシリア人がナツメヤシの授粉作業を行っている記録があり、ナツメヤシの花粉は花粉症を引き起こすことがわかっています。そのことから間違いなく授粉作業者のなかには花粉症患者がいたのではないかと推測されます」
とはいえ、文献ではっきりと花粉症を確認できるのは中世以降のことだ。
「アルコールの発見や硫酸の製造を行ったペルシャの医師ラーゼスは、バラ風邪(バラ花粉症)、つまりバラによる季節性アレルギー鼻炎について初めて論じました。中世では枢機卿や医者など多くのバラ花粉症とみられる症例が記録されています。
ただ、この頃は花粉ではなく香りによって引き起こされると思われていました。ちなみに、バラ風邪は当時奇病とみなされていましたが、忌むべき存在ではなく、詩に歌われるほど情緒的なものでした」
日本人には憧れだった
欧米の花粉症
次に花粉症が知られるようになったのは1800年代。当時、「夏カタル」と呼ばれる干し草による花粉症(のちに「干し草熱」という呼び名が広まる)の報告が増えていた。
「『干し草熱』は階級の高い身分に症例が多かったことからイギリスでは『貴族病』とも言われ、ある種のステータスでした。花粉が原因であることを発見したイギリスの医師ブラックレイは、教養階級の人々が長年にわたる職業訓練や書物による勉学に励むようになり、神経をすり減らしたことによって花粉に感作しやすくなったと述べています。他には、衛生環境の向上と肉や乳製品など免疫に関するタンパク質量の増加が関係していると私は思いますね」
ちなみにブラックレイの研究に大きく興味を引かれたのは『種の起源』で知られるダーウィンだ。彼はブラックレイに手紙を書くなど、花粉症の研究を高く評価している。
時を同じくして、アメリカではブタクサ花粉症が台頭してくる。草木に覆われておらず土がむきだしになっている裸地を好むブタクサは、もともとは洪水や火災の跡地などの限られた場所で生息していたが、フロンティア開発による裸地の増加、また交通網の発達により瞬く間に繁殖。それとともに多くの人が花粉症を患っていったのである。
「アメリカでは花粉を避けるため、富裕層による『花粉症リゾート』が形成されました。集まった富裕層たちは花粉症に選ばれ、リゾートを満喫している自分自身をブルジョワと認定し、自己陶酔に浸っていました。イギリスの『貴族病』と同様に花粉症であることは特権階級にとってステータスでした。
ちなみに、花粉症リゾートには作家アーネスト・ヘミングウェイも父に連れられ何度も訪れており、母親に勘当されるなど、のちの作品に影響を与える出来事もそこで起きています」
このように世界の列強国では、花粉症はエリート層が発症するものとされてきた。そのせいか、昭和初期の日本では「日本人は花粉症になれるか」という研究をした人もいた。イギリスの貴族やアメリカの特権階級への憧れを背景に、「『日本人も花粉症になる特別な民族である』というナショナリズムにも利用されていた」(小塩氏)のである。
林業研究者が少ない
日本の構造的問題
日本で花粉症患者が出現したのは1961年のこと。患者はブタクサ花粉症患者で、3年後にはスギ花粉症患者の存在が報告されている。その後の患者数は増加の一途をたどる。
日本の花粉症患者が増加した原因は、戦後の植林政策で多く杉が植えられたこと、そしてその杉が活用されず放置されていること、衛生環境や食生活の向上したことなど多岐にわたる。
「1984年にはプロ野球の田淵幸一選手が花粉症のために引退を表明。1993年には植林政策のために花粉症になったとして、静岡市の弁護士などが国を訴えたスギ花粉症裁判が行われました。こうしてスギ花粉症は日本人に広く知られていくようになりました。厚生省(現厚労省)や林野庁が対策に動き始めたのもこの頃です」
紀元前からの長い花粉症の歴史において、日本は新興国であるが、近年は日本以外でも花粉症に悩む国は増加しているという。
「インドネシアでは観光客用に整備されたゴルフ場が多くありますが、その際に植えられたバミューダグラス(ギョウギシバ)の花粉症患者が増えています。さらに、中東では砂漠緑化に使用するプロソピスによる花粉症患者も多いです。海外から持ち込まれた植物や同じ植物が密集しすぎている環境の増加、またファストフードなどによる食生活の変化も花粉症の発症に影響すると言われています」
各国で花粉症の対策は行われているが、効果的なものはいまだにない。日本もその例に漏れず、小塩氏を含めて研究者たちが試行錯誤を繰り返している。
「まず林業従事者が激減しているので、杉を切りたくても切れません。無花粉杉に植え替える作業も進められていますが、成長するまでに長いスパンがかかり、花粉ができないので苗を増やすのも簡単ではないのです。私が開発した農薬で雄花だけを枯らす散布実験も、浜松で行われていますが、まだまだ改良が必要です。
また、花粉を根絶できたとしても、環境の変化で新たな問題が起こりかねません。したがって、花粉症の症状を軽減しながら、花粉と共存していく方法も考えるべきでしょう」
さらに小塩氏は花粉症対策への国の本気度に疑問を呈す。
「そもそも日本には林業分野の研究者が少ないのです。博士号を取得して研究職に就くには論文数が重要ですが、樹木の成長は長い時間かかるので、一晩で大量増殖するようなウイルス分野などと比べて成果を上げにくいのが実情です。研究者を育てるならば画一的な評価制度ではなく、国が意図的に人材を育てないといけません。これは花粉症分野だけの問題ではなく、自然環境を守ることにもつながるのです」
いずれにせよ、人類は2000年以上前から我々と同じく花粉症の苦しみを味わい続けてきた。その歴史に思いをはせれば、憎き花粉ではあるが、少しは愛おしく感じられる、かもしれない。