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人はなぜ“言わなくてもいいこと”を言ってしまうのか 


 「メンタリスト」として、人の深層心理に基づいたさまざまなイリュージョンを見せてくれるDaiGo氏が、YouTubeで生活保護受給者や路上生活者(ホームレス)に対する差別発言をしたとして、波紋が広がっている。13日には一度謝罪動画を公開し、翌日には謝罪内容を訂正、改めて謝罪を発表している。

 ネットでは今もなお、言わなくてもいいことをわざわざ言って炎上するケースが山ほどある。特に政治家などは、ライブパフォーマンス、いわゆる「現場のウケ狙い」で発言し、言質を取られることが多い。国会議員は憲法51条により、両議院内で行った発言は院外で責任を問われないという免責特権があるが、院外での発言は当然責任が問われる。

 昔は院外の演説や講演会での話をいちいち記者が立ち会ってチェックなどしていなかったので、リップサービスやパフォーマンスとして際どいことを言って場を盛り上げる政治家は数多くいた。だが誰でも動画や録音ができて、すぐにネットにさらされる時代に、政治家も「オフレコ」が通用しないことを学んだ人も多い。まあ学ばない人も多いのが問題ではあるのだが。

 まず大前提として、憲法19条では、思想及び良心の自由を保障している。これは、人は頭の中で何を考えたとしても罪に問われないということである。ある一定の事柄を考えることすら国家が禁止するとなれば、洗脳も可能となってしまい、自由主義国家の根幹に関わるからである。

 従って、生活保護受給者や路上生活者に対して差別的な感情を持ったり、差別的な意見を頭の中で考えたりするだけでは罪には問われない。心の中は完全にフリーダムである。そもそも表明していないので、外からは誰も分からないわけだが。DaiGo氏が言うようなことを頭の中で思った人がいても、それは罪にはならない。

 その考えを外に出してしまうと、それは「思想」ではなく、「表現」となる。そこから先は憲法21条における「表現の自由」の問題に切り替わる。何かの考えを発表する前に国家が差し止めることが「検閲」であり、これも同じく21条で禁止されている。つまり何かの考えを「表現として表に出すこと」は、事前に差し止めはできないし、「表現すること自体」が法的な罪に問われることはない。

 だが「表現の自由」は、その表現内容が社会通念上から非難されないことや、社会的制裁を受けないことまでは保障していない。そもそもどんな考えでもいったん表現として表に出してみないことには、みんなで議論して正しい結論にたどり着けないからである。「表現すること自体」を罪に問うべきではないが、表現された内容はまた別の話である。

 だから、DaiGo氏の考え方に多くの人や団体が異を唱える行為は、その表現されたものに対して一種の社会的評価がなされたということである。そのような考えは「これこれこういう理由でよろしくないでしょう」ということで、訂正なり撤回を求めたり、正しくはこうであったとの表明を求めるのはアリだ。だが過剰に謝罪を求めていく姿勢は、問題の本質を危うくする。さらにその親族にまで「謝れ」というのは、完全に筋が違うだろう。

 多くの場合、謝罪と訂正・撤回はセットである。謝罪は「気が済む」ことがメインであり、根本的な解決は訂正や撤回の方にある。「言い方が悪かったようで、不愉快に思われた方がいれば謝罪する」という言い回しは政治家から何度も聞いているが、これは発言の内容については何一つ訂正・撤回しておらず、「感情的に傷ついた人がいるなら悪かったね。でも言ってることは変わらないからそのままGoでよろしくね」という意味だ。

 過剰に謝罪を求めていくと、謝罪こそが目的になってしまう。表現の訂正・撤回もない謝罪を、「よし、打ち負かしてやった。今日も正義が勝った」と留飲(りゅういん)を下げるだけで、問題は積み残したままだと気付けない人やメディアは多い。

「正しい」とは何か
 今ネットを探せば、過去の行為や発言は何らかの形で記録や痕跡が見つかる。これはさかのぼって何でも調べることができる「透明な時代」だといえるのではないか。

 その昔、一般個人が表現手段やコミュニケーション手段を持たなかった頃は、どこで誰かが何かを言ったというのは、うわさ話でしかなかった。話の根拠を探しても見つからず、誰もメモや録音を残していない、「そういう話だったそうな」以上のことが分からなかった時代があった。「不透明な時代」である。

 統計数理研究所は「日本人の国民性調査」を継続実施している。1953年以来、執拗に同じ質問を繰り返しているという、非常に価値の高い調査である。

 調査項目の中に、「あなたは、自分が正しいと思えば世のしきたりに反しても、それを押し通すべきだと思いますか、それとも世間のしきたりに、従った方が間違いないと思いますか?」という設問がある。

 「自分が正しいと思ったことを押し通すべき」と答えた人が主流だったのは、調査開始の1953年から1973年まで。ちょうど日本の高度経済成長期と重なる。

 不確かな時代では、正しさを示すデータが見つからないか、そもそも何が正しいのかも曖昧であった。何も先が見通せない不透明な中、少ない根拠を元に、それぞれが勘を働かせて正しいと思われる方向に進んでいくしかなかった時代である。自分が正しいと思うことを表明し、その通りに行動する人は、先見の明があるリーダーとして尊重された。もちろん失敗例もたくさんあっただろうが、自分には見えない何かが見えている人が輝いていた時代といえるだろう。

 続く10年、1988年までは、「世間のしきたりに従った方が間違いない」とする人が多数を占めた。その当時のしきたりとは何かといえば、高度経済成長期の混沌の中で培われたセオリーである。つまり新しいことを始めるよりも、成功体験をトレースした方が得だった時代だ。

 この時代、正しいことを言うのは容易だった。勝者がたくさんいて、勝者の論理が正しいものとなる。その人の言うことを鵜呑(うの)みにしていればよかったからだ。

 しかしこの傾向は、1993年以降から2003年の10年間、また変化を見せる。「場合による」が多数を占め始めるようになったのだ。ちょうどバブル経済が崩壊し、長い経済低迷期に突入した時期と重なるのは興味深い。再び、何が正しいか見えなくなった時代ともいえる。

 いや、「圧倒的な勝者の正しさが通用しなくなった時代」といえるのかもしれない。かつての勝者も分が悪くなり、拮抗する勢力があれば勝てそうな方に乗る。そういう時代である。

 ネットの世界を振り返ってみると、この時期パソコン通信が行き詰まりを見せ、1995年のWindows 95、1998年のWindows 98登場を契機にインターネットが普及し始めた。2ちゃんねるをはじめとする匿名掲示板が隆盛を極め、良いこともたくさん起こったが、同時に悪いことも多かった時代である。

 そして特徴的だったのは、正しいことが必ずしも支持されなくなったことだ。逆にいえば、倫理的に問題のある意見が支持され、大きな共感を呼ぶこともあった。あらゆる表現が噴出し、試された時代でもある。

 その中で多くの人たちが「場合による」という態度でいたことは、自分の身を守るために必要な処世術であった。

「逆マジックミラー号」の中で踊る
 そして2008年以降、この「場合による」は、「世間のしきたりに従った方が間違いない」と拮抗状態になる。リーダー不在でも回る状態になったということだろう。過去に決めたことで問題がなければそのままだし、何か変化があるなら勝てそうな方に乗りたいという、曖昧な状態である。

 この傾向から見れば、上記DaiGo氏の発言に反対した人たちには、2パターンあるように思う。一つは、差別発言は許されないという「世間のしきたり」に従った人たち。もう一つは、この場合は倫理的に正しい方が議論に勝てるはずと判断した人たちである。純粋な気持ちで差別問題と戦っている人たちもいるはずだが。

 先の調査で、「物事の『スジを通すこと』に重点をおく人と、物事を『丸く収めること』に重点をおく人では、どちらがあなたの好きな“人柄”ですか?」という設問がある。全体を見ると、各年代を通じてあまり比率が変わらないように見えるが、年齢別に見ると印象が大きく変わってくる。

 スジを通す人を好む傾向は、年齢層が若くなるに従ってきれいに上がっていく。スジとはすなわち「正しさ」だろうから、若い人ほどスジにこだわるのは、分かる気がする。若くてもスジが正しいのであれば、勝てるからだ。

 DaiGo氏の差別発言も、発信した当初は「正しい」と思っていたのだろう。それは、同じような考えを持つ人が周りにもいて、その中では正しかったのかもしれない。あるいはイエスマンばかりで、DaiGo氏に意見できる人が周りにいなかったのかもしれない。

 これを「フィルターバブル」と表現するのは簡単だが、その考えをもう少し進めると、「逆マジックミラー号の中で踊る」のと同じだといえる(若い方はご存じないかもしれないが、マジックミラー号とは中からは外が見える、外からは見えないというハーフミラー貼りの車両で、一時期アダルトビデオでヒットしたシリーズである)。

 人気YouTuberはこの逆、外からは丸見えだが中からは自分たちしか見えないという、逆マジックミラー号で踊っているのと変わりがないのではないか。DaiGo氏は弁明の中で「自分の無知」を反省していたが、これは情報産業の開拓者ともいえるYouTuberが意外に「透明な時代」であることに気付けない「無知」でもあるだろう。

 小さな集団では、とがった意見でも通用することがある。それは、小さな集団が社会全体の利益、公共の福祉を考える必要がないからである。その集団が外から丸見えになっているのが、「透明な時代」だ。1人の人間の発言でも広く社会に伝われば、その時点で公共の福祉に照らし合わせ、出るクイは打たれる。

 しかし、この先行きが暗い時代に意見を一本化し丸められると、イノベーションは生まれにくくなる。今度はそのことが、社会全体としてはデメリットとなる。問題の解決方法を探すなら、どこかに閉じた空間で自由闊達な意見の場はあっていいはずだ。

 インターネットにも一部そうしたサービスが流行した時期もあったが、われわれは「広く周知する力」の虜になってしまった。それならば、ネットのどこかにまた場所を作るか、「インターネットの次」を探さなければなるまい。「インターネットの次」が何かは分からないが、時代の行き詰まりは、インターネットの行き詰まりでもあるようだ。
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