能力の低い人ほど「自分を過大評価しがち」な理由 逆にできる人ほど不安で自分を過小評価しがち
心理学者のダニングとクルーガーの実験によれば、「できない人ほど楽観的で自分を実際以上に見積もる」「できる人ほど不安が強く、自分の能力を実際以下に見積もる」と言います。いったい、なぜそんな結果に? 心理学博士の榎本博明氏の新刊『自己肯定感という呪縛』より一部抜粋・再構成してお届けします。
なぜかできない人物が自信満々で、できる人物の方が慎重で不安げだと感じることはありませんか。
それは、日本人ばかりではないようです。自己肯定感がみるからに高く、自信満々に振る舞う欧米人の中でも、とくに自信満々にみえる人物ほど、その実力はあやしいといった知見が得られています。
それを示す実験を行ったのが心理学者のダニングとクルーガーです。ダニングたちは、ユーモアのセンスや論理的推論の能力など、いくつかの能力に関するテストを実施し、同時にそうした個々の能力について自己評価させるという実験を行いました。
その際、能力の自己評価に際してはパーセンタイルという指標を用いています。つまり、自分の能力が下から何%のところに位置づけられるかを答えてもらいました。
たとえば、12パーセンタイルというのは、下から12%という意味なので、自分はその能力がかなり低いとみなしていることになります。50パーセンタイルというのは、自分はその能力に関しては平均並みとみなしていることになります。80パーセンタイルというのは、下から80%という意味なので、自分はその能力は相当に高いとみなしていることになります。
実際の成績順に全員を4等分し、最優秀グループ、平均より少し上のグループ、平均より少し下のグループ、底辺グループに分けました。そして、能力の自己評価と実際の成績を比べたところ、とても興味深い傾向がみられたのです。
底辺グループほど自分を「過大評価」
まずはユーモアのセンスについてみてみましょう。底辺グループの実際の平均得点は12パーセンタイル、つまり下から12%のところに位置する、非常に低い得点になりました。ところが、底辺グループの自己評価の平均は58パーセンタイルで、自分は平均より上だとみなしていました。
わかりやすく言えば、ユーモアのセンスについては、底辺グループはかなり低い能力しかないのに、自分は平均以上の能力があるというように、自分の能力を著しく過大評価していたのです。
それに対して、最優秀グループでは、そのような過大評価はみられず、むしろ自分の能力を実際より低く見積もる傾向がみられました。
もうひとつ、論理的推論の能力についてもみてみましょう。底辺グループの実際の平均得点は12パーセンタイル、つまり下から12%に位置する、非常に低い得点でした。ところが、底辺グループの自己評価の平均は68パーセンタイルで、自分は平均よりかなり上だとみなしていました。
わかりやすく言えば、論理的推論の能力についても、底辺グループは、かなり低い能力しかないのに、自分は平均よりかなり高い能力があるというように、自分の能力を著しく過大評価していたのです。
こうした実験結果によって、なぜか仕事のできない人ほどポジティブで、根拠もなく自信をもっていることが裏付けられました。
できない人ほど楽観的で、自分の能力を実際以上に見積もり、できる人ほど不安が強く、自分の能力を実際以下に見積もる。これは、できる人の方が、現実の自分自身や状況を厳しい目で見ているため、自分を過信し楽観視するよりも、不安が強くなるためでしょう。
それがさらなる成長の原動力ともなっているのです。さらに、追加の実験も行ったダニングとクルーガーは、能力の低い人物は、自分が能力が低いということに気づく能力も低いと結論づけました。単に自己を肯定するように導けばいいというわけではないということは、こうした知見からも明らかです。
欧米はよくほめるがしつけに厳しい社会
自己肯定感がみるからに高いアメリカ人の真似をしてほめて育てるやり方を取り入れた。にもかかわらず、日本人の自己肯定感が一向に高まらないどころか、むしろ自分の衝動をコントロールできず、傷つきやすく心が折れやすい子どもや若者が増えている──その背景には、父性原理の強い社会と母性原理の強い社会という文化の違いも関係しています。
欧米のように子どもを厳しく鍛える父性原理の強い文化においてほめるのと、日本のように子どもに甘い母性原理の強い文化においてほめるのでは、ほめることの効果がまったく異なってくるからです。
それなのに、そうした文化的背景の違いを考慮せずに、「アメリカは進んでいる」「日本は遅れている」「日本もアメリカのようにすべきだ」などと、欧米コンプレックスに突き動かされて、ほめて育てるということをしてしまったのです。
欧米では、小学校1年生から実力が不足していれば留年させますが、日本では、高校生や大学生ですら「みんなと一緒に進級できないとかわいそう」ということで、実力不足でも単位を与えて進級させてしまうことがあります。日本で小学生でも実力不足だったら留年させるなどと言ったら、「そんなのはかわいそうすぎる」と猛反対されるでしょう。
欧米では、親子といえども個としてきちんと切り離されており、乳児の頃から親子別室で寝ますが、日本では、乳児どころか小学生になっても親子が一緒に寝ることもあるほど親子が分離されず、密着しています。
ゆえに、欧米では、わが子であっても幼児と一緒に入浴すると幼児虐待として通報されてしまいますが、日本ではわが子が幼児どころか小学生になって一緒に入浴してもとくに異常とはみなされません。
欧米では、まだ分別のつかない子どもを親は厳しくしつける義務があるため、子どもに対して親は権威をもたねばならず、子は親に絶対的に従わなければいけません。一方、日本では、子どもが言うことを聞かないと親が子に「お願いだから言うことを聞いてちょうだい」とお願いしたり、「明日はちゃんと食べるよね」と譲歩したりしてしまいます。親は子どもに対して権威をもって接しているとはいえません。
そうした文化の違いを無視して、ほめるということだけ取り入れた結果、ほめるばかりで厳しく鍛える機能が欠如した社会が2000年代以降の日本に出現してしまったのです。
欧米のように親子が心理的に切り離され、厳しい競争原理が働いている、父性原理の強い社会では、ほめることで鼓舞して頑張らせても、力を発揮できなければ即座に切り捨てられます。厳しい父性原理によって子どもも若者も鍛えられていきます。
一方、日本のように親子が心理的に密着しており、力を発揮しなくても切り捨てられることのない、母性原理の強い社会では、子どもや若者を鍛えてあげるために、言葉だけでも厳しいことを言う必要があったのです。
ところが、そうした文化的背景を考慮せずに、厳しいことを言うと傷つけるとか、ほめれば自己肯定感が高まるなどといって、ほめることばかりを優先してしまったため、子どもや若者を鍛えてあげる機能が欠落し、傷つきやすく、心が折れやすい子どもや若者が増えてしまいました。これでは自己肯定感が高まらないのも当然です。
「ほめて育てる」デメリット
厳しい父性原理なしに「ほめて育てる」ということをすると、つぎのようなデメリットがあると考えられます。
・ほめてもらえないと、やる気をなくす心がつくられる
・失敗を恐れる心がつくられる
・失敗を認めたくない心がつくられる
・耳に痛い言葉が染み込まない心がつくられる
・注意されると反発し、自らを振り返らない心がつくられる
・思い通りにならないとすぐに諦める心がつくられる
そうなると、ほめられることによって一時的には自信になるかもしれませんが、それは脆く傷つきやすい自信であり、真の自己肯定感につながる自信にはならないのです。