人は「死んだら」どうなるのか…じつはその「答え」はすでに決まっていた!
宗教は「根拠のない気休め」なのか
その昔、学生のころ、ゼミで教授が、こんな意味のことを言いました。
「△△さんは気の毒に。重い病で助からないので、洗礼を受けたんだって。そうでもしないと心がもたないよ」
【写真】死ぬ瞬間はこんな感じです。死ぬのはこんなに怖い
教授は上から目線で、△△さんの信仰を眺めています。それはちょっと違う、と私は思いました。教授の考えは、たぶんこうです。
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1.人間は、死ねば、肉体も精神も、ただ存在しなくなる。
2.それ以外の考え方や信仰は、根拠のない気休めである。
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世界にはさまざまな宗教があります。死んだらどうなるかの考え方があります。それを全部、「根拠のない気休め」とひとくくりにしてしまいます。
この考え方を、「死のリアリズム」と名づけましょう。
死のリアリズムは、「世の中で経験できることは正しい」「自然科学は正しい」と考えます。そして、霊や来世や死後の世界は認めません。宗教は怪しいとか、はまると怖いとか思っている「無宗教」のあなたは、この考え方をしているのです。
「死のリアリズム」を超える
死のリアリズムの、どこが問題か。
第一に、傲慢であることです。死のリアリズムは、宗教は「根拠のない気休め」を、選択しているとみなします。けれども、死のリアリズムも、根拠のない選択をしている点では、同列なのです。自分も選択をしていることに、謙虚でなければなりません。
第二に、死のリアリズムは、「このわたし」の死を、考えることができません。宗教はみな、「このわたし」の死を包み込む考え方をもっています。それに対して、死のリアリズムは、経験にもとづく常識と、科学とだけにもとづきます。
どちらも、一般的な知識です。「このわたし」の死は、ただ一回の個別的な出来事です。一般的な知識では、決して考え切ることができないのです。
「このわたし」の死は、死んだらどうなるかを「選択」しないと、考えることができません。いまこの文章を読んでいて、死のリアリズムで十分だと思っていたみなさんは、ぜひこのことを、胸に手をあてて、じっくり考えてみてほしいと思います。
人生にピリオドを打つには、死のリアリズムを越えて進まなければなりません。
このことに思い至るとき、世界のさまざまな人びとが、宗教をどう選びとって来たかについて、敬意が湧いてきます。それは、さまざまな人びとの生き方に、敬意を抱くことなのです。過去、日本で生きたさまざまな人びとに対しても。
「死後」を選ぶことは「生き方」を選ぶのと同じ
世界のさまざまな人びとは、死んだらどうなるか、さまざまに考えてきました。
人間は、自分が死ぬと知って、生きている。それが人間の誇りです。どう死ぬかは、どう生きるかと、結びついています。死ぬとどうなるかを選ぶことは、生き方を選ぶのと同じことなのです。
誰でも死ぬのは、一度だけ。ぶっつけ本番です。それなのに、死んだらどうなるかの考え方は、いくつもあります。それなら、とりあえず、どれかひとつに決めるしかありません。
死ねば自分は、完全になくなる、と考えるのもひとつの態度です。これには、実は、二種類あります。
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a.自分が死ぬと、存在しなくなる。でも、世界や人びとはまだ存在する。
b.自分が死ぬと、存在しなくなる。そして、世界や人びとも存在しなくなる。
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bのほうがある意味、一貫しています。でも、相続や遺言は無意味だと考えるはずで、けっこうメチャメチャです。aは、常識的な無神論者です。でも、「自分が死んだあと、世界や人びとはまだ存在する」は、根拠のない、信仰のようなもの。神を信じるのと、そう変わらないのです。
常識と科学(だけ)を信じる、Aさんがいました。Aさんは、「このわたし」が存在することを、どう考えるでしょう。
ビッグバンがあって、島宇宙ができて、超新星が爆発して、炭素や金属原子ができて、地球ができて、生物ができて、…人間ができて、「このわたし」がいる。数えきれない偶然の積み重なりです。「このわたし」が存在するのは偶然。合理的に説明できません。
自分の存在は偶然、つまり謎です。合理的に考えても、世界の中心にはぽっかり、偶然の穴が空いているのです。
一神教は、この偶然の穴を、「神の創造」で埋めます。「このわたし」が存在するのは神の意思である。世界を、常識と科学で考えていく、自分の合理的な態度は1ミリも変わりません。ただ、世界が、無意味な偶然ではなく、意味のある秩序に変わるのです。
いま、一神教を例にあげましたが、この世界を合理的に生きる近代人の態度と、さまざまな宗教とは、両立するのです。
「常識のある合理主義者が、信仰をもつ」とは
ここまでみてきた宗教を、2行にまとめてみましょう。常識のある合理主義者が、信仰をもつとは、つぎのように考えることです。
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○一神教 神が、世界を創造し、人間を造った
この世界のすべてのことは、神の意思により起こる
○キリスト教 神が、世界を創造し、人間を造った
イエス・キリストは、人間を愛し、人間を救う
○汎神論 この世界の至るところに、神が存在する
人間は、この神聖な世界と調和して生きるべきである
○神道 世界は神々のおかげで、このように成り立っている
人間は神々に感謝し努力もして、平和に暮らすべきである
○インドの宗教 世界は因果の法則によって、このように運行している
この因果の法則を覚ることには、最高の価値がある
○浄土宗 阿弥陀仏は衆生を救おうと、パワーを送っている
念仏を唱えれば、阿弥陀仏の極楽浄土に往生できる
○禅宗 座禅して瞑想すれば、この世界の真理を認識できる
それは、かつてゴータマが覚った真理と同等である
○法華宗 法華経の行者は、久遠実成仏に導かれて菩薩行をする
この重要な教えは、法華経だけに書いてある
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2行なので、わかりやすい。2行なので、覚えやすい。
あなたはどれを選ぶ?
このなかに、あなたにぴったりのものがあれば、それを自分の宗教に選ぶことができます。そして、自分の死の理解、自分の生き方にすることができます。
死んだらどうなるか、自分で決めます。自分で決めないと、どうなるか自分でもわかりません。自分で決めて、そのつもりで生きると、「そのように生きて、死んだひと」になります。自分で思うように決めて、思うように死ねる。これはすごいことです。
とのべておきながら、反対に、こうも言いたいです。どの宗教、宗派を選んでも、結局は同じこと。どれがよくてどれがだめ、ということはないのです。
なぜか。それは、どの宗教も、「常識ある合理主義者」が自分の生き方の原則に責任をもって、社会を歩むために、プラスになるに決まっているから。
科学と理性を信じるだけの合理主義者では決して満足できなかった、世界に空いたあの偶然の空白を埋めて、確信をもって他者と共に社会を生きていくことができるから。
ひとつ、宗教を選んでみなければ、宗教のことはわからない。その宗教のことがわからないだけでなく、どの宗教のこともわからない。ひとつの宗教に真剣にコミットしてはじめて、ほかの宗教のことも、ああそうか、と内側からわかることになる。
その意味で、どの宗教を選んだとしても、結局は同じことなのです。
その昔、学生のころ、ゼミで教授が、こんな意味のことを言いました。
「△△さんは気の毒に。重い病で助からないので、洗礼を受けたんだって。そうでもしないと心がもたないよ」
【写真】死ぬ瞬間はこんな感じです。死ぬのはこんなに怖い
教授は上から目線で、△△さんの信仰を眺めています。それはちょっと違う、と私は思いました。教授の考えは、たぶんこうです。
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1.人間は、死ねば、肉体も精神も、ただ存在しなくなる。
2.それ以外の考え方や信仰は、根拠のない気休めである。
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世界にはさまざまな宗教があります。死んだらどうなるかの考え方があります。それを全部、「根拠のない気休め」とひとくくりにしてしまいます。
この考え方を、「死のリアリズム」と名づけましょう。
死のリアリズムは、「世の中で経験できることは正しい」「自然科学は正しい」と考えます。そして、霊や来世や死後の世界は認めません。宗教は怪しいとか、はまると怖いとか思っている「無宗教」のあなたは、この考え方をしているのです。
「死のリアリズム」を超える
死のリアリズムの、どこが問題か。
第一に、傲慢であることです。死のリアリズムは、宗教は「根拠のない気休め」を、選択しているとみなします。けれども、死のリアリズムも、根拠のない選択をしている点では、同列なのです。自分も選択をしていることに、謙虚でなければなりません。
第二に、死のリアリズムは、「このわたし」の死を、考えることができません。宗教はみな、「このわたし」の死を包み込む考え方をもっています。それに対して、死のリアリズムは、経験にもとづく常識と、科学とだけにもとづきます。
どちらも、一般的な知識です。「このわたし」の死は、ただ一回の個別的な出来事です。一般的な知識では、決して考え切ることができないのです。
「このわたし」の死は、死んだらどうなるかを「選択」しないと、考えることができません。いまこの文章を読んでいて、死のリアリズムで十分だと思っていたみなさんは、ぜひこのことを、胸に手をあてて、じっくり考えてみてほしいと思います。
人生にピリオドを打つには、死のリアリズムを越えて進まなければなりません。
このことに思い至るとき、世界のさまざまな人びとが、宗教をどう選びとって来たかについて、敬意が湧いてきます。それは、さまざまな人びとの生き方に、敬意を抱くことなのです。過去、日本で生きたさまざまな人びとに対しても。
「死後」を選ぶことは「生き方」を選ぶのと同じ
世界のさまざまな人びとは、死んだらどうなるか、さまざまに考えてきました。
人間は、自分が死ぬと知って、生きている。それが人間の誇りです。どう死ぬかは、どう生きるかと、結びついています。死ぬとどうなるかを選ぶことは、生き方を選ぶのと同じことなのです。
誰でも死ぬのは、一度だけ。ぶっつけ本番です。それなのに、死んだらどうなるかの考え方は、いくつもあります。それなら、とりあえず、どれかひとつに決めるしかありません。
死ねば自分は、完全になくなる、と考えるのもひとつの態度です。これには、実は、二種類あります。
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a.自分が死ぬと、存在しなくなる。でも、世界や人びとはまだ存在する。
b.自分が死ぬと、存在しなくなる。そして、世界や人びとも存在しなくなる。
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bのほうがある意味、一貫しています。でも、相続や遺言は無意味だと考えるはずで、けっこうメチャメチャです。aは、常識的な無神論者です。でも、「自分が死んだあと、世界や人びとはまだ存在する」は、根拠のない、信仰のようなもの。神を信じるのと、そう変わらないのです。
常識と科学(だけ)を信じる、Aさんがいました。Aさんは、「このわたし」が存在することを、どう考えるでしょう。
ビッグバンがあって、島宇宙ができて、超新星が爆発して、炭素や金属原子ができて、地球ができて、生物ができて、…人間ができて、「このわたし」がいる。数えきれない偶然の積み重なりです。「このわたし」が存在するのは偶然。合理的に説明できません。
自分の存在は偶然、つまり謎です。合理的に考えても、世界の中心にはぽっかり、偶然の穴が空いているのです。
一神教は、この偶然の穴を、「神の創造」で埋めます。「このわたし」が存在するのは神の意思である。世界を、常識と科学で考えていく、自分の合理的な態度は1ミリも変わりません。ただ、世界が、無意味な偶然ではなく、意味のある秩序に変わるのです。
いま、一神教を例にあげましたが、この世界を合理的に生きる近代人の態度と、さまざまな宗教とは、両立するのです。
「常識のある合理主義者が、信仰をもつ」とは
ここまでみてきた宗教を、2行にまとめてみましょう。常識のある合理主義者が、信仰をもつとは、つぎのように考えることです。
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○一神教 神が、世界を創造し、人間を造った
この世界のすべてのことは、神の意思により起こる
○キリスト教 神が、世界を創造し、人間を造った
イエス・キリストは、人間を愛し、人間を救う
○汎神論 この世界の至るところに、神が存在する
人間は、この神聖な世界と調和して生きるべきである
○神道 世界は神々のおかげで、このように成り立っている
人間は神々に感謝し努力もして、平和に暮らすべきである
○インドの宗教 世界は因果の法則によって、このように運行している
この因果の法則を覚ることには、最高の価値がある
○浄土宗 阿弥陀仏は衆生を救おうと、パワーを送っている
念仏を唱えれば、阿弥陀仏の極楽浄土に往生できる
○禅宗 座禅して瞑想すれば、この世界の真理を認識できる
それは、かつてゴータマが覚った真理と同等である
○法華宗 法華経の行者は、久遠実成仏に導かれて菩薩行をする
この重要な教えは、法華経だけに書いてある
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2行なので、わかりやすい。2行なので、覚えやすい。
あなたはどれを選ぶ?
このなかに、あなたにぴったりのものがあれば、それを自分の宗教に選ぶことができます。そして、自分の死の理解、自分の生き方にすることができます。
死んだらどうなるか、自分で決めます。自分で決めないと、どうなるか自分でもわかりません。自分で決めて、そのつもりで生きると、「そのように生きて、死んだひと」になります。自分で思うように決めて、思うように死ねる。これはすごいことです。
とのべておきながら、反対に、こうも言いたいです。どの宗教、宗派を選んでも、結局は同じこと。どれがよくてどれがだめ、ということはないのです。
なぜか。それは、どの宗教も、「常識ある合理主義者」が自分の生き方の原則に責任をもって、社会を歩むために、プラスになるに決まっているから。
科学と理性を信じるだけの合理主義者では決して満足できなかった、世界に空いたあの偶然の空白を埋めて、確信をもって他者と共に社会を生きていくことができるから。
ひとつ、宗教を選んでみなければ、宗教のことはわからない。その宗教のことがわからないだけでなく、どの宗教のこともわからない。ひとつの宗教に真剣にコミットしてはじめて、ほかの宗教のことも、ああそうか、と内側からわかることになる。
その意味で、どの宗教を選んだとしても、結局は同じことなのです。